今年は長崎大水害から40年です。
NBCではシリーズで長崎大水害を振り返っています。
今回は被災者からの119番通報を受けた消防の現場から今できる備えなどを考えます。

長崎大水害(1982年7月23日)

(通報)「119番消防です。火事ですか?救急ですか?」

119番を受信する長崎市消防局の指令室。火災や急病、救助などの通報を受け隊員を現場まで迅速に送り出す役目を担います。
しかし40年前の長崎大水害の際指令室は大混乱に陥りました。

(激しい雨の音)

1982年7月23日の夜。時間雨量およそ100ミリの猛烈な雨が3時間降り続いた長崎市では広い範囲で同時多発的に災害が起きました。

(当時の通報音声)
(消防職員)もしもし119消防です。
(女性)山の方から崩れかかっているんですよ
(男性)道路が1m50から2m近くなっているわけですよ
(消防職員)水位が?
(男性)助けようにもどうしようもないわけですよ。
(男性)子どもががけ崩れで挟まれているんですよ。
(消防職員)がけ崩れで挟まれている?至急そっちの方に手配するようにしますので
(女性)籠町の東屋クリーニングですけど、裏のがけが崩れてですね、一人ないし二人が生き埋めになっているみたいなんですよ。

記録されていた音声データをもとに、あの日、消防に通報したと思われる長崎市籠町にあるクリーニング店を訪ねました。

当時、救助要請をしたクリーニング店

記者「音声が残っていたので、聞いてもらってもいいですか?」

(当時の通報でのやりとり)東屋クリーニングですけど、裏のがけが崩れてですね、一人ないし二人が生き埋めになっているみたいなんですよ。

道野 志津子さん「(通報したのは)私ですけど、ここら辺ずっと回ったけど、みんな通じなかったんですよね、電話が。それでやっと、そこのマンションの2階のスナックで。そこからかけたんですよね」

夫とともに、この店を営んでいる道野 志津子さんです。大水害の日の夜9時ごろ店舗兼住宅の裏から轟音が鳴り響きました。

道野さん「昔はここはこんななってなくて崖だったんですよね。この崖がですね全部、そこまで来て…この辺まで、ここは全部潰れてしまったんですよね。そしてもうだめだ、これは自分たちではどうしようもないなと思って」

隣の家に土砂が流れ込み、中にいたおばの救助を求めて消防へ通報したものの。

(当時の通報でのやりとり)全区域にまたがっているもんですからね、すぐ行けないんですね。申し訳ないですが、付近の人を全部集めてスコップなんかを持ち出して、消防が来るまで処置してください。

道野さん「うちだけじゃなくてもうね、みんなそういう状態なんだなあと思ってですね。頼りにはされない(=できない)から、自分たちでどうにかしなくちゃいけないと思って(家族が救出した)」

未曽有の大災害。消防の対応には限界が訪れていました。

当日夜、出動したのは消防署職員440人、消防団員の総数は 1800人に達した

(当時の通報でのやりとり)
(女性)鉄砲水が出てですね。
(消防職員)人が生きるか死ぬかしていますか?どこも出ています。川も氾濫しています。人が生きるか死ぬかしない限り(救助が)出せません。

(消防職員)119番消防です。
(男性)家にですね
(消防職員)人が生きるか死ぬかしていますか?人命に危険ですか?川から水が流れているんです。それならお宅たちで避難してください。

大水害の時、指令室で対応にあたった消防職員の一人 松尾 秀男さんの手記には当時の緊迫した様子が記されています。

(手記)通報を受けると「土砂崩れで人が生き埋めになっている」「人が流されている」「早く助けて」と悲鳴にも聞こえるような叫びが。ほとんどの人がパニック状態。
興奮した口調で「奥山全滅」「奥山全滅」という現場情報が無線台から流れると、指令室内は一瞬静まり返り、全員が相当な災害と、認識をさらに強めた次第でした。