授業の合間にフルート 教師としての顔

原口は教師として13年間で7つの学校を渡り歩いた。長崎被災協の会長・田中重光さんは、彼の教え子だった。時津中学校時代の思い出をこう語る。

長崎被災協会長 田中重光さん:
「英語と国語を教わった。授業の合間にフルートやバイオリンを弾いていたけど、正直なところ上手くはなかった(笑)。でも、生徒を楽しませようとしていた」

そして、もうひとつの印象的な記憶。

長崎被災協会長 田中重光さん:
「授業中、よく鼻をかんでいた。病気のせいだったのかもしれない」

被爆の影響は、彼の身体にも確実に残っていた。田中さんの証言などから、原口喜久也さんの遺稿詩集『現代のカルテ』を出版したのは時津中学校時代の教師仲間だったことが分かった。

詩人仲間・深江福吉の証言

原口は詩人仲間とともに文学を語り合い、詩を創作していた。遺稿詩集『現代のカルテ』を出版したのは詩人仲間だった深江福吉さん。深江さんは、原口さんについて、"喜久也さんの震えるような才能に魅せられた"と記している。

『喜久也さんとは肉親以上の付き合いであり、泊まり込みで会って文学の話をし、レコードを聞き…、松の葉より澄明(ちょうめい)に顫(ふる)えるその詩才に私は魅せられたものです』(深江 福吉さん)

深江 福吉さんは2005年に他界しており、今は長男の成芸さんが家を引き継いでいた。父親が大切に保管していたという喜久也さんの遺品を見せてもらった。

長男 深江 成芸さん:
「埃かぶってる。…バイオリンです」

深江さんの長男・成芸さんは、幼い頃の父の言葉を思い出す。

深江成芸さん:
「小さい頃、父と一緒に原爆資料館のトイレを見に行ったことを覚えている。”ここで死んだとばいね…”と言っていました」