被爆と原口喜久也
原口喜久也は1923年、長崎市磯道町に生まれた。医師の家に生まれながらも、家業を継がず詩の道を歩んだ。
22歳の時、彼は軍隊から長崎に戻り入市被爆した。最愛の恋人は原爆で命を落とし、彼自身も被爆の影響を受けながら生きることになった。
戦後は教師として働いた。しかし、39歳の時に「骨髄細胞腫」と診断され死と向き合う日々を送ることになった。
家族の記憶
出身地の近くに同じ名前の病院をみつけた。「原口医院」。たずねると院長の原口千春さんが対応してくれた。千春さん(医師)は、彼とのつながりについてこう語った。
原口千春さん(医師):
「喜久也と、うちの親父が従兄弟です。でも、彼の本を見たこともないし、実家にも残っていません」
―― 喜久也さんのことを覚えている方は?
「…いません。どんなして亡くなったのかも知りません。
どうやって亡くなったんですか? 僕がかえって聞きたいくらいです」
家族の間でも、原口喜久也の生きた証は埋もれつつある。