縁もゆかりもない宮崎で 母と幼い弟との3人暮らしは貧しさを極めた

住民を巻き込んだ激しい地上戦の末、20万人余りの命が失われた沖縄戦。

23日、沖縄県糸満市の平和記念公園では戦没者追悼式があり、参列者が黙とうを捧げました。

太平洋戦争で5歳の時に沖縄県から宮崎市の波島地区に疎開した山内 武さん。
父と祖母は、沖縄に残る決断をしました。

(山内 武 さん)
「父親は農作業の仕事をする働き者だったので、その朝も相変わらず。私たちを見送るのがつらい。昔の明治の人間なので、涙を見せたくないというそういう明治の男性の父親だった。祖母が那覇港まで見送り、父親はそのまま農作業に働きに行った。それが父親との最後の別れだった」

縁もゆかりもない宮崎で始まった母と幼い弟との3人暮らしは貧しさを極めたといいます。

(山内 武 さん)
「母親は自分が食べるものも食べないで、食料がないときには母親の分まで私と弟を食べさせるというそういう気持ちの親だった。5、6キロ行ったところの農家を(訪ねて)食料を手に入れる。食料が全然ない。私も今考えると不思議でたまらない。そういう食料を探して生活していた」