高度経済成長期の昭和30年から40年代にかけて、若い労働力の需要が急増。「金の卵」と呼ばれた中学を卒業したばかりの15歳の子どもたちが、地方から東京・大阪、名古屋などの工場に働きに出ていきました。
(集団就職を経験 俵積田輝秋さん)「金の卵ともてはやされて、1便1000人くらい乗っていたのでは」

鹿児島では、昭和31年(1956年)に集団就職専用の列車が全国に先駆けて誕生。利用者数は、ピーク時の昭和38年から40年にかけて、毎年1万人を超えました。

東京オリンピックが行われた昭和39年(1964年)には、1万3959人の中学卒業者が県外に就職。この春、県内の中学校を卒業した数に匹敵します。

(集団就職を経験 俵積田輝秋さん)「今から知らない場所にいくわけだから不安も少しはあったけど、不安より夢・期待。人生の一歩だった」










