「なぜピーターになってからも海のそばに住み続けているかというと、鹿児島の錦江湾の思い出。錦江湾と桜島。空気・におい・音・波・風、ぜんぶ鹿児島の原風景があるから都心に住まないで、海のそばに住んでいる。それは子どものころの原風景。それがいい思い出」

池畑さんが東京で芸能人となるきっかけは10代半ば、ラサール中学校そして日本舞踊家元で人間国宝にもなった父親への反発でした。家出して最終的には六本木のクラブで働き始め、その後スカウトされました。
「いやだったから私は家出した。父親からの呪縛とかラサールの呪縛とか、東大のコースとか父親の家元を継がなければいけないコースとか、さあお乗りなさいといわれると自分の人生ではなくなる。人から敷かれた人生。反発して逃げていった」
ときあたかも高度成長期。戦争による焼け跡から奇跡の復興を遂げた日本は昭和40年代にはいざなぎ景気が続き、人口が1億人突破。西ドイツを抜き世界2位の経済大国になりました。

豊かさを実感する反面、社会問題も激化、学生運動が頻発しました。一方鹿児島では「金の卵」といわれた集団就職が拡大・鹿児島市の鴨池空港から、霧島への空港移転も焦点となっていました。