春先から霧が濃くなる海域…紫雲丸はこの前にも事故を繰り返していた
大型連絡船同士のこの事故は、戦後10年が経とうとしていた時代の出来事。戦後の復興の最中、人やモノが“大量輸送”されていた時代で、「技術・利便性・採算性が優先され、人命や安全への対策が軽視されていた…」とも言われています。
さらに、瀬戸内海は春先から霧が濃くなる海域で、第六管区海上保安本部の管内では、霧の中での海の事故が、去年までの10年間で69件発生。このうち約65%が4月~6月に集中しています。
「紫雲丸」も、1947年の進水以降、数回にわたり、犠牲者を伴う事故を起こしていて、南海中学校の生徒が犠牲になったこの事故で、最も大きな被害が生じました。
紫雲丸事故を教訓に“瀬戸大橋”が…全国の学校には“プール”も
当時の時代背景や、瀬戸内海特有の地理的条件などが重なり、失われた28人の生徒たちの命。この事故をきっかけに、四国と本州を結ぶ「陸のルート」を建設する機運が高まり、1978年に建設が始まったのが「瀬戸大橋」です。そして、「紫雲丸事故」から33年となった1988年、「瀬戸大橋」が開通しました。
また当時、「多くの子どもたちが『泳ぐ』経験が少なかったことも事故の原因だ」と言われ、この事故をきっかけに、全国の小中学校に「プール」が建設されるようになったといいます。