「初めて四国を出る」という生徒多く犠牲に…衝突し、4分後に沈んだ紫雲丸

▼南海中学校 廣瀬啓二校長
「失意の中で命を失われた皆様に、深く哀悼の意を表します。当時、南海中学校の生徒の多くが、四国・高知県を出るのが初めてで、117人の修学旅行生は、この旅行を心から楽しみにしていたことと思います。当時の生徒にとって、この旅行は『夢』『憧れ』『希望』そのものだったと思います。事故から69年という長い年月が経ちましたが、今後、南海中学校で生徒や教職員が入れ替わっていったとしても、この事故の記憶や生徒たちの思いを受け継いでいってほしいです」

当時、南海中学校の修学旅行は、九州へ向かう班と関西へ向かう班の2つに分かれていて、このうち関西へ向かう班の生徒たちが事故に遭いました。当時、生徒として船に乗っていて助かった葛目堯一さんが、取材に応じてくれました。

▼葛目堯一さん
「本当に、この式典に参加するたびに、当時のことを思い出すばかりですね。ほかの事は考えませんね」

事故後、「紫雲丸」が沈むまでの時間は、わずか”4分”。その最中、生徒たちを助けに海へ飛び込んでいった引率教諭もいました。葛目さんは、その様子を鮮明に覚えているといいます。(この教諭は後に救助)

▼葛目堯一さん
「その先生が、私の目の前を泳いでいったことは、何年経っても思い出されます。本当に、きのうのことのように思い出します」

多くを語らず、絞り出すように事故の様子を話してくれた葛目さんの目には、涙が浮かんでいました。

戦後の復興の最中、人やモノが”大量輸送”されていたこの時代。「技術・利便性・採算性が優先され、人命や安全への対策が軽視されていた…」とも言われます。なぜ、このような事故が起きてしまったのでしょうか。