公文書によりますと、発見の翌月から、愛媛県が「国民的感情からしても機体を引き揚げて確認する必要がある」などと、当時の厚生省に機体の引き揚げと遺骨の調査を繰り返し要請。

しかし、厚生省側は中に遺骨が残されている可能性が低いとして拒否します。
県の報告資料には、厚生省側の対応について「機体を引き揚げる意思は毛頭ない」と記されていました。
当時の様子について、愛媛県の元幹部は、次のように振り返ります。

(愛媛県の元幹部・藤原茂さん)
「県庁内でも意見が分かれた。見解も分かれた。引き揚げるべき、いやいや引き揚げない方がいいと、それから引き揚げるなら県がやるべきだと、それから国がやるべきだと」

また、公文書には「引き揚げて崩壊してしまったでは非難は免れないであろう」と、引き揚げのリスクについても書き記されていました。

結局、愛媛県は、遺骨の有無に関わらず機体を保存する必要があるとして、1979年、単独で引き揚げを実施しました。

④「物言わぬ語り部・紫電改から感じてほしいこと」

戦争経験者でもある県の元幹部、藤原さんはこう話します。