昨年の不調から復活する過程でサニブラウンが、また一回り大きくなった。世界陸上オレゴンでは世界陸上日本人初の100m決勝進出、五輪を含めると90年ぶりの快挙も期待できる。
苦境を乗り越えることに価値

「本当に長かったですから。まだ(ヘルニアの影響に)神経質にはなっていますが、走ることが本当にうれしいです。試合が早く来ないかな、と心待ちにしていました」
サニブラウンは高校2年だった15年世界ユース選手権(現U18世界陸上)の100m、200 mの2種目に優勝し、同年の世界陸上北京大会200mでは準決勝に進出した。リオ五輪のあった16年は故障で代表入りできなかったが、17年世界陸上ロンドン200mでは7位に入賞。当時18歳5か月で、世界記録保持者のウサイン・ボルト(ジャマイカ)より若い年齢でファイナリストとなった。
19年は100mで9秒97(+0.8)と当時の日本新をマーク。しかし世界陸上ドーハ大会は、準決勝ピストル音が聞こえないアクシデント。大きく出遅れたが、決勝に進んだ同じ組の2位選手に0.03秒差と迫った。同年11月にプロ転向し、より競技に専念できる態勢を構築していた。
だが翌20年にサニブラウンの競技人生はピンチを迎える。新型コロナ感染拡大で試合が世界的に行われなくなり、自身も「夏の終わりくらい」にヘルニアを発症した。日常生活にも支障をきたす状態になってしまったのだ。
「3か所同時にヘルニアになって、もう歩けなかったですし、座れないし立てないし。咳もくしゃみも痛みがありました。治療やマッサージを色々やって、背骨自体の圧迫を緩める処置をして、痛み自体は1~2か月で消えたんですが、そこから神経の痛みがずっと残ってしまったんです。体が敏感になってしまって、寝る姿勢も変わりましたし、ベッドや椅子も換えたくらいです。21年の(東京)オリンピックくらいまでずっとありました」
腰に張りがあるとハムストリング(大腿裏)にも痛みが出た。痛みをかばって走っているとまた、別の箇所に痛みが出る。その繰り返しだった。
昨年の日本選手権100mは6位と敗れた。200mは欠場したが五輪参加標準記録を破っている日本人選手が少なく、東京五輪代表に入ることができた。しかし満足に練習できず、予選で21秒41(+0.9)もかかって敗退。サニブラウンは「自身のメンタルとの戦いでした」と振り返る。
五輪後には一度、“メンタルリセット”をすることが必要だった。スマートフォンなど情報機器を持たず、1人で旅に出たという。今も疲れがひどいと違和感のような痛みは出る。だが昨年の秋にはリハビリ的な内容ではあったが、タンブルウィードTCのチームメイトたちより1か月ほど早く鍛錬期の練習に入った。
「自分の体と向き合っていくしかありませんでした。今回のことで体の使い方とか、自分の体に関する知識を学べたこともあります。トップ選手はみんな、何かしら抱えていて、それを超えて強くなっている。自分もそういう選手にならなきゃいけない」
サニブラウンはこれまでも何度かケガがあり、2シーズン続けて代表になれないことが多かった。それと比べても今回のヘルニアと、それに続く神経の痛みで走れなかった期間は長かった。それを克服することで、サニブラウンの醸し出す雰囲気が変わってきた。