「米軍に媚びている感じがして歓迎できない」

兄・修さんは、軍人相手に歌う妹を、冷ややかな目で見ていたという。

平良修さん
「米軍に媚びているような感じがして、気持ちの上では歓迎できない。私の生活の領域と彼女の生活の領域が、同じ沖縄で同じ平良を名乗っているが、どこか違うなという違和感はありました」

基地の外で、牧師としての道を歩んでいた修さん。戦後、修さんはどうしても割り切れないことがあった。軍国主義の化身に見えた教師たちが、平和主義者に変心していたのである。

国、教師と、安心して信じられるものを失い悶々とする中で、ハンセン病患者への差別と闘った牧師と出会い、キリスト教にひかれるようになる。

米軍チャペルの奨学金で、パスポートをもって東京神学大学校に留学。1959年、コザ市(現沖縄市)の沖縄キリスト教団上地教会牧師に就任した。

米軍チャペルとも交流のあった修さんが、明確に基地反対の姿勢を示すようになったのは、1965年のアメリカ留学がきっかけ。当時のアメリカで、黒人は激しい差別に晒されていた。

テネシー州の教育大学で学んでいた修さんは、友人に誘われ、当時、キング牧師らを中心に黒人教会で開かれていた公民権運動の集会に出席。そこで、集会の参加者が、白人による人種差別に怒りを爆発させ、黒人霊歌(ゴスペル)を激しく絶唱している姿に衝撃を受けた。

修さんは妻の悦美さんに手紙を送り、動揺する胸のうちを明かした。

(修さんから妻への手紙)
「沖縄でもこういう叫びがあるはずなのに、僕は聞いていなかったというショックで、後の礼拝がどうだったか、もう分からなかった」

基本的人権を求める黒人たちの叫びや歌声に、アメリカ占領下の沖縄の人々の苦しみが重なった。それ以来、修さんは、牧師として沖縄で泣いている人と一緒に生きることを誓った。

そして1966年、修さんに運命の時が訪れる―

(#後編に続く)