輝いて見えたアメリカの文化や生活 歌に夢中だった
戦後、平良家は、父の故郷・那覇へ引っ越した。
高校に進学した悌子さん。歌の才能を教師に見いだされ、米軍基地で演奏するバンドのオーディションを受けてはと勧められた。

1953年、悌子さんはオーディションに合格。高校卒業と同時に、ジャズシンガーの道を歩むことになった。所属したのは、のちの夫となるギタリスト齋藤勝さん率いるバンドである。
1950年代から60年代にかけて、沖縄には米軍基地が次々に建設され、それに伴い、軍関係者が音楽などを楽しむための娯楽施設が急増。フィリピンや本土からミュージシャンが集まっていた。
演奏者不足を補うため、吹奏楽の経験者や音楽が好きな学生にも声がかかったという。
県内各地の基地ごとに設けられた「米軍クラブ」。階級によって「将校クラブ」「下士官クラブ」などに分かれていて、バンドは、ひと月から数か月単位でクラブを移動しながら演奏する生活を送る。

基地の中は、毎日がパーティーのようだったと、悌子さんは回想する。
齋藤悌子さん
「みんなドレスアップしてね、ステージの前が全部ホールになって、その先がお食事したり飲んだりするようになっているわけね、そして音楽を聞いて踊ったりする方たちもいらっしゃるわけですよね。とにかくあまりの華やかさにびっくりしましたね」
客は、本場のジャズを知る人々。悌子さんはアメリカで流行中の曲を調べ、歌詞を全てノートに書き留めた。英語の発音は、軍人やアメリカの新聞記者が教えてくれた。

齋藤悌子さん
「本当にラッキーな時代だった、私にとっては。英語の発音を丁寧に教えてくださって、帰りには必ずご馳走してくださる。私が自分勝手に思うのは、やっぱり沖縄の子どもたちにも戦争で苦労かけたって気持ちもあったのかな」
さらに、基地の中では、軍人の慰問に訪れた有名歌手のステージも無料で聴くことができた。エラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンなど一流の音楽に直に触れながら、10代の悌子さんはジャズを体得。20代前半には、沖縄のジャズ界を代表するシンガーとなっていた。

















