◆つまり…「相談はしていた」
前述したように、スオンは自分の妊娠について、決して「誰にも言わなかった」わけではなく、医療機関とベトナム人の仲間の一部には「相談していた」わけですが、結局、適切な助言やサポートに辿り着くことはできませんでした。
証言からは、彼女が孤立していく様子が伝わってきました。傍聴していた私には、彼女が、日本語が不得意だっただけでなく、パートナーを見る目も友人関係を築く力も弱かったのかも、と思えてなりませんでした。でもそれは「犯罪」ではありません。
一方で彼女自身は、証言台でも、私との面会でも、自分を見捨てた人達のことを、一度も責めませんでした。
その人柄は、彼女が日に日に大きくなるお腹と不安を抱えながらもキビキビ働いていたという健気さや、毎日のようにFacebookでやりとりしていたベトナムの家族にも妊娠について相談しなかったといういじらしさとも重なりました。家族に話さなかった理由は、高血圧の持病のある母親に心配させたくなかったからだそうです。

そもそも彼女の来日の目的は、娘の養育費と大学進学までの教育費を稼ぐため。「私は進学できなかったから、娘には進学して私みたいな苦労をしてほしくなかった」。こんなことになった今、その言葉は証言台で虚しく響きました。
◆出産の準備はしていなかった
被告人質問からは、スオンが病院を再訪した時には、彼女自身、もう中絶するタイミングにはなく、いつかは生まれることを覚悟していた、という様子が伝わってきました。その一方で「産みたいと思っていたのか?」と聞かれて、彼女は沈黙しました。「育てるつもりがあったのか?」との問いには、長い沈黙の後「答えるのが難しい」と言いました。日本とベトナムのどちらで産むのかも決めておらず、出産の準備もしていませんでした。

前出の斉藤善久准教授は、数々のベトナム人とやりとりしてきた経験から、この、沈黙や仮定の質問に答えられない心境をこう代弁します。「産みたい、とかじゃない。自分がどういう気持ちであろうと、生まれるってことを受け入れているという心境だったのではないでしょうか?彼らは表面的に謝ったり、過去を振り返ってこうすれば良かった、と軽々しく言わない傾向がある。あの時の自分には、あれしか選択肢がなかった、他にどうすれば良かったんだ、という感覚」
判決では彼女が「周囲に妊娠の事実を隠しており、胎児とこれからどうすればいいのかを決めきれないまま、出産当日に至っている」と、捉えられていました。