秦澄美鈴(27、シバタ工業)が三度(みたび)、アジアの女王の座に就こうとしている。9月29日から10月5日に行われるアジア大会陸上競技(中国・杭州)。女子フィールド種目期待の一番手は女子走幅跳の秦だろう。今季は2月に、カザフスタンの首都アスタナで行われたアジア室内選手権で優勝(6m64の室内日本新)。7月にタイの首都バンコクで開催されたアジア選手権にも快勝した。追い風(以下+と表記)0.5mで6m97の日本新だった。
しかし8月の世界陸上ブダペストは向かい風(以下-と表記)に対応できず、6m41(-0.8)で予選落ち。失敗の要因は何だったのか。坂井裕司コーチへの取材をもとに、3つめのアジア・タイトルに挑戦する秦の現状を紹介する。
日本新記録の思わぬ副産物
アジア選手権の秦は素晴らしい跳躍を見せた。6m97と、従来の日本記録を11cmも更新したのだ。「ほぼ完璧でした。助走から踏み切り、空中フォームと、今できることは全てやれた結果の6m97でした」
8月の世界陸上では、完璧な跳躍を求めたわけではなかった。大舞台で完全なことをやろうとしたら、逆効果になることも多い。6m70~80台を安定して出すことで、確実に決勝に進出することをイメージしていた。
だが、思わぬ副産物をアジア選手権から持ち帰ってしまった。
「バンコクの助走路は表面がチップなので軟らかく見えるんですが、中の方がすごく硬い。普通に走ってしまうとちょっと弾かれるような走りになって、コントロールが難しいオールウエザー(全天候舗装の路面)でした」
アジア選手権から世界陸上までを、坂井コーチが次のように説明してくれた。
「アジア選手権のオールウエザー走路が合わず、秦本来の真下で蹴っていく走りをすると進み方がよくなかったんです。そこで少し振り出す動きを入れたら、良い反発をもらって助走をすることができた。しかしいつもと違った動きを行ったせいか、ダメージが体に残ってしまったんです」
タイから帰国後、「1週間以上完全休養」に充てざるをえなかった。
どんな環境にも対応できることは、秦の応用能力の高さを示している。だが、タイの走路に対応した走り方が、世界陸上まで抜けなかった。「ブダペストが追い風なら本来の助走ができたのですが、向かい風で少しでも体が浮く感じになると、振り出す助走になってしまった」と坂井コーチ。
8月の世界陸上ブダペストでは、1回目は向かい風0.7mでファウル。2回目は追い風0.7mだったが、試技のスタート直前に風向きが変わったという。「踏切板を越えなければ6m65くらいの距離は出ていました」。3回目は向かい風0.8m。「跳ばなきゃ、という思いが強く6m41でした」
アジア選手権では対応能力の高さを見せた秦だが、世界陸上までに本来の動きに戻せなかった。それが致命傷になってしまった。
今季は踏み切り直前のスピードがアップ
世界陸上こそ失敗したが、今季の秦のパフォーマンスは高く評価できる。成長の背景には、“踏み切りの強さ”を軸に強化をしてきたことがあった。
昨年までは特に踏み切り前の4歩が、「ちょこちょこ走り」(坂井コーチ)になっていた。それでも日本代表になれたのは、踏み切りの強さがあったからだ。「19年に彼女と出会ったのですが、(踏み切り前の助走が)コンパクトな走りでも、すごい踏み切りができたんです。ボーンと跳び上がってスゴいな、と思いました。毎年、しっかりと積み重ねができたことで、昨年の世界陸上オレゴンに出場できました」
しかし「“ちょこちょこ走り”では世界に挑めない。水平方向への跳び出しが弱くなる」と坂井コーチは考えていた。
日本陸連科学委員会からデータを提示されたことと、昨年の世界陸上オレゴンで海外勢の助走を見たことで、最後の4歩の走り方を変更する決断ができた。「昨シーズンが終わって、助走の中間走のまま最後の4歩も駆け込んでいく走りに変えました。結果的に4歩前のストライドが大きくなりましたね」
秦はその助走を比較的早く自分のものにした。2月のアジア室内選手権に室内日本新で優勝し、屋外シーズンに入ってもその助走は崩れなかった。ファウルながら実測で6m90前後の距離が「4試合であった」(坂井コーチ)という。
その流れの中で出場し、すべての動きが最適の形でできたのがアジア選手権だった。世界陸上の失敗はもちろん反省するが、6m97までの成功のプロセスにしっかりと上積みをしていけばいい。
助走スピードに負けない踏み切り
普通の選手は踏み切り直前の助走スピードを上げると、踏み切りがつぶれてしまう(しっかり踏み切れない)ことが多い。速く走っても記録が悪くなるケースだ。助走スピードが上がっても秦の踏み切りが潰れないのは、“踏み切りの強さ”があるからだ。
「彼女は中学でバスケットボール、高校から大学まで走高跳をやっていました。踏み切り時のパワーが大きいので、スピードに負けないのです。技術的なセンスもある」
秦の成長過程を見れば、世界陸上の失敗だけで評価は下がらない。
世界陸上からアジア大会まで1か月半。「本来の真下で地面をとらえる走りに戻っています」と坂井コーチ。アジア選手権後のようなダメージもなく、体力的にも、助走スピード的にも問題ないという。
今季のアジア・リストでは6m97の秦が1位で、6m76(±0)で2位のシャイリ・シン(19、インド)を21㎝引き離している。アジア・リスト3位は熊詩麒(19、中国)の6m65(+1.7)だ。シンと熊は19歳と伸び盛りだが、今季のアベレージを見れば秦の優位は動かない。「難しいのは体重が減っている状態で向かい風になったときですが、無風や追い風なら大丈夫です。自己新までは行かないかもしれませんが、金メダルは取れるでしょう」
現状でも優勝の可能性はかなり高い。向かい風となっても、世界陸上で失敗した経験を生かせれば金メダルは確実になる。
(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)