関東大震災から100年。震災被害の一方で、「朝鮮人が放火した」などのデマが広がり、多くの朝鮮人が虐殺されました。なぜデマは広がってしまったのか。なぜ虐殺という事態にまでなってしまったのか。そこから今、私たちが学ばなくてはいけないこととは?
関東大震災で起きたデマと虐殺
100年前の「関東大震災」を描いた絵巻物が新たに見つかった。震災の2年後に描かれていて、長さは2巻あわせて32メートルにも及ぶ。
平穏な住宅街の様子からはじまり、激震の瞬間、火災から逃げ惑う人たちの様子が時系列で描かれている。
1巻の終盤に、研究者も驚く描写があった。
手に棒のようなものを持った群衆が青い服の人物に襲いかかる。血を流して倒れこんだ人たち。遺体が折り重なっている。
元専修大学教授(歴史学)新井勝紘さん
「これみんな被害にあっている人、裸足なんです。靴はいてないでしょう?(後ろ手に縛られてる)」
これは朝鮮人の虐殺を描いたものだという。
1923年9月1日。関東を襲った大地震の混乱の中、「朝鮮人が暴動を起こしている」「井戸に毒を入れた」とのデマが広がり、それを信じた民衆が結成した自警団などによって数多くの朝鮮半島出身者が殺害された。
国の中央防災会議がまとめた報告書では、震災の死者数の1%~数%=つまり、少なくとも1000人~数千人に及ぶと推計されている。

司法省の当時の文書にはその一端が垣間見える記録が残っている。朝鮮半島出身者233人の殺害について起訴した記録。凶器には竹やり、日本刀などが使われていた。
危うく殺されかけた日本人もいる。俳優の千田是也氏は、東京・千駄ヶ谷で朝鮮人だと疑われた。

俳優 千田是也氏
「(自警団が)『歴代天皇の名前と言え』と。何しろね、竹やりを突きつけているし、まさかりを頭からこう振り上げている」
映画監督の黒澤明氏も自叙伝に記していた。
映画監督 黒澤明氏
「井戸の外の塀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは朝鮮人が井戸に毒を入れた目印だというのである。私はあきれ返った。何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書だったからである」
虐殺は、大きな被害があった地域だけにとどまらなかった。
避難民が押し寄せた埼玉県北部にある本庄駅では、町をあげて炊き出しを行っていた。そんな中、朝鮮人の放火や暴動を伝える県の通知が届くと、善良な人々がデマを信じて豹変した。
駅に程近い本庄警察署には朝鮮人たちが保護されていたが、いきり立った群衆が警察署になだれ込み、朝鮮人を見つけては襲いかかった。80人以上が殺された。
現場にいた巡査
「子どももたくさんいたが、子どもたちは並べられて、親の見ている前で首をはねられ、そのあと、親たちをはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりで引いている奴もいた」

現場となった警察署は、今もその場所に建物が残っている。

郷土史を研究する小川満さん
「地元の人からすれば、その子孫の方もいますし。気持ちも難しいところがあると思いますけど。あったことはなかったことにはできない。語り継いで、もう二度とこういうことが起きないように」