戦後、1人パラオに残されたフユコさんの人生

今もパラオで暮らすフユコさんは、父と妹2人を栄養失調で失いました。
フユコ ヒロイチさん(86)
「戦争終わってみんな帰った。私だけ残した」
終戦後、母は姉3人を連れ日本へ戻りましたが、幼いフユコさんだけが現地の老夫婦に引き取られることになったのです。
フユコ ヒロイチさん(86)
「(養父母が)いなかったら私死んだ。みんな栄養不良。なにもない。本当のお母さんは私に帰りたい。でもできない。おじいさんおばあさんパラオの人に遠慮して。もう何か月も一緒だから」

一度は日本に帰った母ですが、数か月後、改めてフユコさんを引き取ろうと養父母のもとを訪れました。
フユコ ヒロイチさん(86)
「お母さん来てね『フユコさん私にください。お金あるとき日本から送ります』でもおじいさんおばあさんは暴れて『300ドルください、今くれたらあげます』と」
「300ドルないよ、お母さんに。だから泣いてね、もう帰ったんです」
戦後の混乱の中、現地の家庭に引き取られた日本人や沖縄県出身者は多くいました。
ベラウ国立博物館 シミオン アデルバイさん
「After the war, it was very hard to bring babies back to Japan, because it takes weeks to Japan. So Palauan had to adopt. so like my mother side, we adopted an Okinawan baby.」(戦後、日本に行くには何週間もかかり赤ちゃんを連れて帰るのはとても難しかった。だからパラオ人が引き取るしかなかった。私の母方の家族は沖縄の赤ちゃんを引き取った)
Q引き取られた後どんな暮らしを送った?
「It was kind a hard, because they were not Palauan.」
(とても大変だった。パラオ人ではないから)

フユコ ヒロイチさん(86)
「私日本が好き。言葉もなんでも習慣も好き。でもねそんなこと言ってたらだめで、ここに住んで、孫まで生まれたよ。もうここに住んでるから、死んだらパラオ。日本行けない」
Qできるならまた日本に行きたいと思いますか?
「いちばん行きたい」
戦に翻弄されながらもパラオ人として生きるフユコさん。遠い母国、日本を心の奥で思い続けています。