日本から海をわたった1人の日本人女性がいます。戦争に巻き込まれ、1人パラオに残され、パラオ人として生きることになった彼女は今なお故郷・日本への思いを抱き続けています。彼女の数奇な人生を取材しました。
かつて日本人で栄えたパラオ 生活が一変した戦争の悲劇
太平洋に浮かぶ国、パラオ共和国。かつて多くの日本人移住者たちが暮らしていました。戦前パラオに住む日本人のうち4割あまりが沖縄からの移民だったと言われています。

フユコ ヒロイチさん(86)
「私、純粋日本人です。もう少しで、日本、言葉は忘れました」
フユコ ヒロイチさん(86)。年の近いパラオ人の友人たちと『ハナフダ』をして憩うのが趣味です。
パラオ人女性が好む色鮮やかな服に身を包んだ彼女の人生は数奇なものでした。
フユコ ヒロイチさん(86)
「戦争終わってみんな帰った。私だけ残した」
日本統治下の1936年、パラオに移住した日本人の両親の元に生まれたフユコさん。当時沖縄出身者が多く住んでいた『コロール5丁目』に、フユコさんも家族と住んでいました。
フユコ ヒロイチさん(86)
「私は5丁目、5丁目に住んでました。昔沖縄は来てね、mix、日本人とパラオと沖縄の人とmixして住んでました」

当時のコロールは、日本人に人気の観光地となり、日本人が経営する多くの店で賑わっていたと言います。
かつてフユコさんと同じコロール5丁目で暮らし、戦後沖縄に引き上げた県出身者にも話を聞くことができました。
100歳の元移民男性が語る当時のパラオの様子は
金城善昌さん、100歳。大宜味村で生まれ、小学校卒業後に海を渡りました。
金城善昌さん(100)
「パラオはご馳走が多くてね。みんな初めて聞く食べ物の名前、非常にご馳走」

しかし、そんな豊かなパラオの暮らしを戦争が奪いました。
金城善昌さん(100)
「空襲はなんべんもあったよ。私たちは南洋興発(ペリリュー島)の事務所におったけど、空襲の度に近くの洞窟がある。そこは隠れる非常にいいところ。その洞窟にみんな集まって空襲をしのいだ」
「パラオは食料がなくて餓死する人が多かった。アメリカがパラオを餓死させる政策だった、兵糧攻めする」
当時、善昌さんの務めた会社のあったペリリュー島は激戦地となり、日米あわせて2万人以上の兵士が命を落としました。