誰かこの赤ちゃんだけでも助けてあげて
イブニングニュースでは、戦後78年が経ち、語れる人が少なくなってきている戦争証言をお伝えしています。今回は、1945年7月4日、14歳の時に高松空襲に遭い、焼夷弾が降る中を逃げた92歳の女性の証言です。

(戸祭恭子さん)「最後かな、もうこんなヨボヨボしながら杖付きながら、もう終わりやなと思って。思いながらやっぱり声をかけていただくと、もうこれが最後かなと思いながらやってます」


高松市で長年、高松空襲の語り部として活動を続けてきた戸祭恭子さんです。

年々高松空襲の経験者が少なくなっていく中、92歳の今でも自身の体験を語り続けています。

(戸祭恭子さん)「赤ちゃんが泣いてるんですよね。おぎゃあおぎゃあいうてね。本当にお母さんは亡くなってるんですよね。それをやっぱり赤ちゃんわからないからね、おっぱいこうやってね。『誰かこの赤ちゃんだけでも助けてあげて』いうて、それこそ、その時もわれかまわずおらんだんですけど(叫んだ)、だれも助けませんよね。そんなん、その時に自分はまだ14歳で小さいから助けてもよう育てんし、そのままほっといて逃げたのが気になって、やっぱり夏が来ると思い出します」

1931年、満州事変の年に生まれた戸祭さんが高松空襲にあったのは14歳、女学校3年の時でした。

空襲で多くの犠牲者を出す中新町ロータリーのすぐ南に住んでいました。7月4日未明、戸祭さんは、警戒警報で目を覚まします。

(戸祭恭子さん)「空襲警報もたぶん鳴ったと思うんですけど、それがいっぺん解除になったんですよ。解除になったから偵察機か何かが1機ぐらい通ったんだなということで、そのころようそんなんがあったもんですからね。横になってトロっとした途端にドカンいう音から先に来て」


午前2時56分、高松市に飛来したB29・116機による空襲が始まったのです。

(戸祭恭子さん)「紫雲山の山の方からものすごく火柱が上がって、自分のところの近くの方で落ちたような感じがしたんですけど、

上を見るとばあっと降りてくる。

ご存じの通りひとつの筒の中に40発ぐらい焼夷弾があって、

それが途中で破裂してそれがぱあっと落ちるんですよね」