世界陸上ブダペスト大会5日目は、入賞者こそ出なかったが、女子5000m予選で素晴らしい日本記録が誕生した。田中希実(23、New Balance)が14分37秒98と、廣中璃梨佳(22、JP日本郵政グループ)が持つ14分52秒84の日本記録を約15秒も更新。予選2組6位で決勝に進出した。田中は1500mとのダブル入賞を最大目標に設定していたが、大会2日目の1500m準決勝は1組最下位(4分06秒71)。中2日でここまで調子を上げられた理由は何だったのか。そして5000mのレベルアップの背景に、どんなトレーニングがあったのだろうか。
“チーム田中”崩壊の危機を乗りこえて
1500m準決勝から中2日の5000m予選。昨年の世界陸上オレゴンでは9日間で3種目5レースに出場している。中2日は田中にとって十分な間隔だったのかもしれないが、ここまでハイレベルの記録を出すとは予想できなかった。回復ではなく、覚醒と言えるのではないか。1500m準決勝後に何があったのか。田中本人は次のような話をした。
「自分の中では切り換えができませんでした。色んな人の力を借りるべきだとわかっていても、力の借り方が下手なんだと思います。誰に対しても傷つけるような言動をしてしまうので、支え合いではなかった数日間でした」
父親の田中健智コーチと激しい議論をすることは、2人とも隠そうとしなかった。2人にとっては前に進むため、問題を解決するために必要な手順だと認識していた。しかし今回は“チーム田中”のメンバーにもキツく当たってしまった。今年4月にプロとして活動し始めた際に結成したチームである。田中コーチが説明する。
「1500mは予選も準決勝も、戦う前に精神状態が安定していませんでした。チームでやっているのに1人で戦おうとするんです。『何をやっても虚(むな)しい』という言葉もありました。レースの度に選手がマイナスのことを言っていたら、チームのみんなも疲弊します。準決勝が終わって、取り巻く人間の思いを理解して、それに対して自分はどうしたいのか、チームを大切に思うなら、チームを潰したくないのなら、感謝がないとダメだよね、という話をしました」
田中コーチの言葉を聞き、チームの話し合いも経て、田中は心を開き始めた。5000m予選レース後に次のように話している。
「一緒に苦しみ抜いてくださった方たちがいたことで、今日スタートラインに立てましたし、最後まで走り切れました。私にとって学びになったというか、もっと人として成長して、今みたいにおんぶに抱っこじゃなくて、自分でも大丈夫だよっていうところを見せられる選手になりたい。改めてそう思いました」
落ち着いた精神状態でスタートラインに立った田中は、「タイムとしては今の100点満点」の走りで、驚愕の日本新記録を出してみせた。
5000m日本新を可能にしたトレーニング
田中の1000m毎の通過タイムとスプリットタイムを、前日本記録と比べると次のようになる。
▼日本記録(田中希実・23年世界陸上予選)
1000m 2分57秒57(2分57秒57)
2000m 5分51秒19(2分53秒62)
3000m 8分47秒46(2分56秒27)
4000m 11分45秒62(2分58秒16)
5000m 14分37秒98(2分52秒36)
※主催者発表
▼前日本記録(廣中璃梨佳・21年東京五輪決勝)
1000m 3分00秒7(3分00秒7)
2000m 6分00秒8(3分00秒1)
3000m 9分00秒7(2分59秒9)
4000m 11分58秒2(2分57秒5)
5000m 14分52秒84(2分54秒64)
※主催者発表
S.ハッサン(30、オランダ)が最初から先頭に立ち、4000mまでを良いペースで引っ張った。1000mから2000mまでが少し速いが、前半でリズムに乗る局面なので負担にはならない。4000mまでが少し遅いが少し休むことで、ラスト1000mのペースアップに備えることができた。
日本人には想定できないようなペースで走ることができたのは、精神状態が良くなったこともあるが、そのためのトレーニングと経験ができていたからだ。東京五輪(1500m準決勝で3分59秒19の日本新、決勝8位。5000m予選落ち)翌年の22年シーズンからは、徐々に「5000m仕様」(田中コーチ)にトレーニングを変更してきた。週に2~3回行う負荷の高いポイント練習では、そこまで距離を走るわけではないが、それ以外のジョグの日には距離を多く走るようにした。昨年中から「14分50秒を切る力はある」と、田中自身も感じていた。
昨年は練習でも最初の400mや1000mを速く入り、思ったより余裕がないと感じると、走りが硬くなってしまっていた。今季は入りのタイムを若干抑えることで余裕を持ち、中盤から後半にかけペースを上げる練習を多くした。一方で最初を速く入るメニューも行い、レースにも対応できるように準備した。そして今年7月のフィンランド遠征で14分53秒60の自己新(当時)で走り「5000mの力の出し方がわかってきた」という。3000m通過が9分00秒前後でないと日本記録は難しいと以前は考えていたが、フィンランドでは9分09秒で通過しても、ラスト2000mを上げることで日本記録に迫るタイムを出した。ブダペストの予選はレースへの集中力、田中の精神状態の良さで、日本記録よりも速いペースで入ってもゆとりを持つことができた。
「誰も前に出なくてスローになったらどうしよう、という不安もあったのですが、ハッサン選手が行ってくれました。ハッサン選手も1500m(銅メダル)を終えた後なので、そこまで急激なこと(ペースチェンジ)はしないんじゃないかな、という予測もあったので、迷いなくつけたんです。そういう幸運もあって出せたタイムです。まだ世界で戦える強さは、1500mの失敗もあるので、まだないかなって思います」
大幅な日本記録更新はペースに恵まれたからで、世界と戦う裏付けにはならない。快記録を出した直後でも、田中は冷静に自身の走りを分析していた。
ペースの上げ下げにも対応できる今年の田中
5000m決勝は大会8日目(8月26日)の20時50分(日本時間27日午前3時50分)に行われる。田中の14分37秒98はシーズンベストで決勝出場者中11番目。8位入賞の可能性はあるが、簡単ではない。先ほど紹介した田中のコメントにあるように、予選は一定のハイペースで人数が絞られていく展開だった。決勝はおそらく、ペースの上げ下げが激しくなる。揺さぶりを交互に掛け合って、相手にダメージを与えるのだ。
そうした予選とは違う展開になったときでも、今季の田中は対応できるのではないか。今季は5000mのレースを日本選手権、フィンランド、世界陸上と数を絞り、1500mに多く出場してきた。優勝したアジア選手権のように「ビルドアップ的に後半上げて行く」(田中)走りをしたり、ラスト1周、あるいはラスト2周のタイムに「こだわる」走りをしたり。異なるパターンの展開を1500mで行うことで、走りの引き出しが確実に増えた。
そうしてきたことで「1500mが5000mにつながる感覚」を持てていることが、昨シーズンとの違いだという。5000m決勝が勝負重視で上げ下げの激しい展開になっても、それが生きるはずだ。
「決勝は(19年ドーハ、22年オレゴンに続いて)3大会連続ですが、入賞できたことがありません。入賞を狙っていきたいですし、今日とはまた違った展開になる可能性が高いので、だからこそ、今度はどこまで勝負できるのかに挑戦します。(予選通過順位の)8位に入れないんじゃないか、という予選の怖さでなく、勝負になって思い切り挑める気楽さがあるので、チャレンジの気持ちを持ってスタートラインに立ちたいです」
多くの種目で、多くのレースパターンを走ってきたマルチランナーの経験が、田中を日本勢26年ぶりの入賞に導く。
(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)