28歳の若さで命を絶たれたBC級戦犯・藤中松雄(1921-1950)には、一緒に出征した同じ村の男性がいた。盛大に見送られた3人。“同期”は100歳になり「兵隊には行きたくなかった」と本音を明かした。それでも海兵団に入団後の新兵訓練中は、消灯前に3人で話をするのが楽しみだった。快活で美しい妻を愛したという松雄。男性は「帰ってきても戦争の話は互いにせんやった」と語る。それぞれの任地で何が起き、松雄がなぜ戦犯に問われたのか。人となりが浮かび上がってきた―。

◆“リーダー的な存在”の松雄を含む3人が一緒に召集された

水兵姿の坂本弘之さん

その男性は、坂本弘之さん100歳(2021年当時)。藤中松雄の遺書を所蔵している嘉麻市碓井平和祈念館の学芸員、青山英子さんから松雄と同い年の男性がご存命で市内にいらっしゃることを教えてもらった。青山さんと一緒にご自宅を訪ねると、玄関に出てきて出迎えてくださった。庭に手作りの資料館があり、戦争と炭鉱、農作業の道具や写真などが集められて展示されていた。近くの小学校から、授業の一環として子供たちが訪れることもあったという。案内してくださった坂本さんは、足腰もしっかりしていて普通に歩き、100歳には見えないくらいお元気だった。少し耳は遠いものの、はきはきとお話しされる。

「この人が藤中松雄。」

坂本さんは、戦争関係の資料が展示されている一角を指さした。額縁に入った海軍制服姿の青年の写真があった。

坂本さんは松雄と同じ1921年(大正10年)生まれ。太平洋戦争が始まった1941年12月に召集され、佐世保海兵団に入団した。20歳だった。同じ碓井村から坂本さんと松雄ともう1人、合わせて3人が一緒に召集されたという。村の行事によく関わり一緒に作業をしていた松雄を、坂本さんはリーダー的な存在だったと振り返る。

◆消灯前に3人で話したのろけ話『おれのかかは…』

海軍制服姿の藤中松雄

坂本さん「藤中さんは先頭に立って指導するような立場の活発な人やったですね、人物はよかった。盆綱引きとか良くしてくれよったですね」

3人の若者たちの出発を村の人たちは盛大に見送った。

坂本さん「1500人くらい見送りや。学校からみんな来る。でも駅過ぎてしばらくしたら、みんな話をしなくなって。それくらい寂しかったんやね、兵隊にいくのは。ほんといったら行きたくなかったんや。でも、行きたくないとかどうとか言われんからね。」

佐世保海兵団



佐世保海兵団に入団後、3ヶ月の新兵訓練中は消灯前に3人で話をするのが楽しみだったという。坂本さんは独身だったが、藤中家に婿養子に入った松雄には、ミツコとの間に長男が生まれていた。

坂本さん「藤中さんは奥さんとこどもの話を良くしよったですね。自慢話聞きよった。お前婿養子やないかって冷やかしたら、『おれのかかは、よか女やけんね』って。嫁さんのことをよく褒めよったやね。きれいな奥さんやったもんね。」