大学進学をきっかけに北海道にやってきた渓口さん。
 92歳の母・雅子さんです。

 12年前、北海道に移住し、北広島市内の特別養護老人ホームで暮しています。
 今も消えない78年前、あの日の記憶。

渓口雅子さん
「(原爆投下で)家はもう全然ないです。灰の町。焼け残った町がね、たまには(建物が)残っていましたけどね、その中は死体ばっかり。生きた人はいなかったです」

 1945年8月6日午前8時15分。
 当時14歳、安芸高等女学校の2年生だった雅子さんは、うっかり寝坊をしたため、爆心地の近くで予定されていた建物疎開に参加できず、3キロ離れた自宅の縁側で弟と妹と3人で涼んでいました。

渓口雅子さん
「私が記憶にあるのはね、原爆の爆弾が落ちたときの、ぴかっという光、あの光はちょっと見たことない」

 現在92歳の雅子さん。
 10年ほど前までは、北広島市の公民館などで自身の被爆体験を話したり、広島の原爆資料館に被爆体験の証言を寄せたりと原爆の記憶を語り継ぐ活動を続けてきました。

渓口正裕さん
「(母親が)平和公園を訪れて、祖母がまだ亡くなったという確認が取れてないんです。遺体すら見つかっていなくて。原爆死没者名簿というところに行って、そしていつも母が、『(祖母の名前が)ないね…』って一言こぼしていく背中を見ていたから、それがやっぱり自分の中で残っている」