今も終わりが見えないロシアによるウクライナ侵攻。今回の侵攻で最大の戦争犯罪とされているのが、子ども連れ去りだ。ロシアが連れ去ったのは、生後4か月の赤ちゃんから17歳まで、その数およそ2万人。TBSテレビの戦後78年特番「つなぐ、つながるSP 戦争と子どもたち 2023→1945」(8月12日(土)午後3時30分放送)では、助け出された子どもの1人に話を聞くことができた。

“軽い気持ち”で参加したキャンプで・・・

7月上旬、ウクライナの首都キーウ。待ち合わせ場所の公園に母親と2人で現れたのは、カテリーナさん、13歳。白いTシャツにモノトーンカラーのバッグを下げ、流行に敏感な中学生という雰囲気だ。

南部ヘルソンに住むカテリーナさんは、去年10月からおよそ4か月間、ロシアが支配するクリミア半島にある施設に送られたあと、自宅に帰ることができなくなった。きっかけは、学校で誘われたキャンプに参加したことだった。

カテリーナさん(13)
「(案内には)クリミアのエウパトリアに行ってリフレッシュできると書いてありました。初めてのキャンプで、リラックスしたいと思っていました」

軽い気持ちでクラスメートとキャンプへの参加を決めたという。10月7日の朝にバスで出発し、夜にクリミアに到着。年齢別のグループに分けられたという。

カテリーナさん(13)
「宿泊棟に連れて行かれ、10歳から12歳、12歳から13歳のグループで棟ごとに分けられました。男子用と女子用のシャワーとトイレが各階に1つずつありました」

カテリーナさんのグループは52人で、シャワーやトイレは男女別に1つずつ。施設は想像していたものより簡素だったが、当初、友達と過ごす時間は楽しかったという。

しかし、予定していた2週間が経つと、キャンプの運営側から突然「期間を延長する」と言われたのだ。

カテリーナさん(13)
「私たちは夜に映画を見たり、パフォーマンスを見たりするホールに集められ、家には帰れないと言われました。情勢が不安定なことが理由だと。2週間滞在して、家に帰ると思っていました・・・」

ーー家に帰れないと知った時、どう感じましたか?

カテリーナさん(13)
「怖かったです。もう二度と家に帰れないかもしれない、私たちはここに永遠にいるかもしれないと思いました。それは恐ろしいことで、言葉になりません…」

「君の住む街がロシアの領土になったら家に帰れる」

12月、カテリーナさんらはクリミア・エウパトリアの別の地区にある施設に移された。4、5人の相部屋だったが、部屋にシャワーとトイレが付いていて、前の施設より少し環境は良くなった。しかし、そこで待っていたのは、ロシア人になるための“再教育”だったという。

カテリーナさん(13)
「朝、目覚めると、まず体操をします。体操の前にロシア国歌が流れるのですが、国歌を聞かされている間、立っていないといけません。立たない場合は、その理由を紙に書いて説明させられていました」

キャンプのカリキュラムには学校に行く時間も含まれていたが、授業の内容はロシア語とロシア文学、数学、英語で、ウクライナ語の授業はなかったという。

アメリカの研究機関によると、こうした収容施設は43か所あり、子どもたちを「ロシア化」するため、ウクライナ語を禁じ、ロシア語を話すよう強制される場合もあるそうだ。

カテリーナさんとともに収容されていた子どもたちは、みな一様に帰りたがっていたというが、それは簡単なことではなかった。

カテリーナさん(13)
「施設の管理者に『いつ帰れるの?』と聞くと、『海を泳いで行ったら家に帰れるよ』って。『冗談はやめて、真剣に答えてくれますか?』と言うと、『君の住む街がロシアの領土になったら家に帰れるよ』と・・・」

絶望感のなかで、カテリーナさんにさらに悪いニュースが入った。

カテリーナさん(13)
「年が明けたら、私たちが孤児院に引き渡される可能性があるという話が出始めました。すぐに(携帯電話で)母に伝えました」

カテリーナさんは幸い、母親のヴィクトリアさんと連絡をとることができていた。ヴィクトリアさんは娘を取り戻すために様々な選択肢を試みたというが・・・。

カテリーナさんの母 ヴィクトリアさん(37)
「 私は自力でクリミアから彼女を連れて帰ろうとしました。 しかし、クリミアとの境で止められました。私のウクライナのパスポートの問題で、入れないと言われました。毎日涙が出て、寝るときも泣いて、仕事に行くときも泣いていました。 とてもつらかったです」

その後、ボランティア団体の協力のもと、ヴィクトリアさんは7日間かけてポーランド、ベラルーシを経由してロシアに入国し、クリミアへ渡った。キャンプ出発からおよそ4か月後の今年1月末、カテリーナさんはようやく親元に戻ることができた。