「姉を見殺しにしたことは事実」 その弟は…

姉の和子さん

木造の離れにいた姉の和子さんは、倒壊した建物の下敷きとなりました。当時中学生だった、弟の光男さんは助けに向かいましたが…。

高倉光男さん
「中学生が動かせるはずがありません。微動だにしません。それでも、泣きながら『待ってて、今、助けてあげるから』と。ふと気がついたら、まわりに火の手が上がっていた」

このままではみんな焼け死んでしまう。光男さんは、姉の和子さんを残し、重症の母・ひささんを背負って必死で逃げました。

高倉光男さん
「お母さんを助けるために姉を見殺しにしたことは、母には死ぬまで言いませんでした」

母のひささんは、娘・和子さんの最期の様子を知らぬまま、1982年に亡くなりました。

高倉光男さん
「わからないんです。姉さんを助けたい。おふくろを助けるのが大事なのか、自分が助かりたいためにおふくろを背負って姉を見殺しにして逃げたのか。わたしは生きて、『お母さん、助けて』という姉を見殺しにしたことは事実です。だから、しゃべりたくないんです。だから、原子爆弾のことを思い出したくないの。誰にも言いたくないの。言うと悲しくなって、涙が出て。今でも…言えません。今後、原爆でこういうふうなことはあったら世界中、同じようなことがどこでも起こるんじゃないかと思います」

高倉光男さん(1995年)

光男さんは「原爆だけがいけないのではない」と力を込めます。

高倉光男さん
「原爆だけがいけないんじゃないと思います。戦争は、なんでもいけません。武器を使う戦争は。小銃であれ、ピストルであれ。原爆がいかんで、大砲がいいなんて、そんなアホなことありますかいな。とにかく武器はいけませんよ。戦争はいかん」

被爆から50年。自分の家族にさえ被爆体験を語らなかった高倉光男さんは、このインタビューの翌年、亡くなりました。