「わたしは姉を見殺しにした…」。生涯、悔い続けた男性がいます。「待ってて、今、助けてあげるから」と姉に言ったはずだったのに…。自分は、自分が助かりたいために母を背負って逃げたのか…。被爆から50年が経った1995年のある日、その男性は、証言を静かに始めました。

原爆が投下されて2か月後に撮影された映像に、広島逓信病院でガラスが突き刺さった目の治療を受けている女性の映像が写っています。幟町(現・広島市中区)の自宅で被爆した松下ひささんです。

治療を受ける松下ひささん(1945年 提供:日英映像)

ひささんの次男・高倉光男さんは、家族の被爆体験を50年間、誰にも語りませんでした。家族にさえも。

1945年8月6日。原爆が投下されたとき、幟町の自宅には光男さんと母のひささん、そして2人の姉がいました。ひささんはガラスを浴びて大けがをし、次女の和子さんは建物の下敷きになりました。

高倉光男さんは原爆投下の衝撃を「一瞬、体じゅうがムチ打たれたようになった」と表現しました。母のひささんは「あんたたちは大丈夫か? 和子はどうした?」と、子どもたちを心配していたといいます。

1人、木造の離れにいた姉の和子さんは、倒壊した建物の下敷きとなりました。中学生の光男さんは姉を助けに向かいました。すると、「ここよ!お母さん助けて!」と姉の声が聞こえました。しかし、2階建ての家がつぶれ、大きな梁が落ちていてました。