今回、改めて解析を依頼すると、冨五郎さんのメッセージが蘇りました。

冨五郎さんがウォッジェ島に入ってからおよそ半年後、近くにあった日本軍の拠点が陥落し、補給路を断たれた島は、完全に孤立。空爆に耐えながら、飢えをしのぐだけの日々が、綴られていました。

1944年8月21日
「普通デハ一食分足ラズヲ現在デハ三食ニシテ食ス」
「身体ハ次第ニ衰ヘルノミデアル」


日記の中で、食料は、みるみる減っていきます。

1944年9月16日
「飯ワンノ中ニ草ヤ木ノ葉ガアルノミ。米ガ見エナイ」 
「生キテイルノハ不思議ナクライダ」


1945年4月20日
「ガ死ダ食モノナシ。 病死ハ絶対シナイゾ」

極限の状況でも、冨五郎さんが忘れなかったもの。
それは、家族のこと。

「勉君ドウシタカナー」
「ドンナニ大キクナッタ事でせう」

「ドンナニ大キクナッタ事でせう」


勉さん
「家庭をすごく思っていたんだよね、この日記を読むと。なんでそんなに…死ぬか生きるか分からないのに」

死の5日ほど前。
冨五郎さんは、家族に向けて語りかけます。

「孝子、信子、勉、赤チャンモ」 
「父親ニ尽ス親孝行ハ 皆ンナデ 母親ニ孝行ヲツクシテ下サイ 父ノ分マデモ」


自らは飢えに苦しみながらも、冨五郎さんは、さらにこう続けていました。

「元気デ、ホガラカニ オイシイモノデモタベテ クラシテ下サイ」

「元気デ、ホガラカニ オイシイモノデモタベテ クラシテ下サイ」

そして、1945年4月25日。
日記の最後のページには、これまでにない乱れた文字で、絶筆が残されていました。

1945年4月25日
「二十五日 全ク働ケズ苦シム 日記書ケナイ 之ガ遺書 最後カナ」

「二十五日 全ク働ケズ苦シム 日記書ケナイ 之ガ遺書 最後カナ」


勉さん
「よく書いてくれたと思って。何かを残したかったんでしょうね。自分ひとりのためでなく…みなさんのために」

(21年8月放送『戦後76年「つなぐ、つながる」SP へいわとせんそう ~戦場からのメッセージ~』を再構成)