太平洋戦争末期、サイパン島を失った日本。さらにフィリピンのレイテ島でも敗れ、勢力圏が大幅に減少していきました。

ルソン島には、物資がほとんど届かなくなっていました。それでも、ルソン島の兵士たちに命じられたのは「自活自戦」、「永久抗戦」。食料を現地調達しながら、戦い続けることでした。
ルソン島から生還した河村俊郎さん(97)は、次々と兵士が餓死していった極限の状況を証言してくれました。
河村俊郎さん
「急流で、この水きれいだから顔でもあらおうかなと思って行ったら、5mくらい上流に人が倒れている。見たら、兵隊さんなんだよね、餓死です。だからその水を飲むの止めたけどね」

それでも生きるため、食べられるものは、何でも食べたといいます。
河村俊郎さん
「軍隊の靴は豚肉だったんですよ。死んだ戦友の靴を、申し訳ないけど、もらって切って、飯ごうに水を入れて半日置く。それを茹でて、塩があれば入れて茹でた革を食べたもんね、我々も。」

相次いだ餓死の実態ー。戦場で、自らが餓死していく様子を克明に記録していた兵士がいました。佐藤冨五郎さんです。

冨五郎さんが送り込まれたのは太平洋に浮かぶマーシャル諸島の「ウォッジェ島」。
島には日本軍の飛行場があり、3000人ほどが駐留しましたがこの、およそ3分の2が死亡しました。

島での1年9か月の日々を、冨五郎さんは2冊の日記に残していました。しかし、鉛筆でびっしりと書かれた米粒ほどの文字は、かすれて、多くが読めませんでした。


「読みたかったのよ。どうにかして父の存在を知りたくて」息子・勉さん(80)は長年そう思い続けてきました。
その勉さんが頼ったもののひとつが、古文書の読み取りなどに使う、赤外線解析です。