津波と原発事故 農業再開への「壁」
今年3月下旬。避難所や仮設住宅を経て、荒木さんはいま、隣町の原町区で暮らしています。高齢の母親と、二人きりの暮らしです。

私たちと荒木さんとの出会いは、当時、避難所となっていた中学校でした。亡くなった奥さんが可愛がっていた愛犬、「スー太郎」と暮らしていました。
津波の被害が大きかった小高区。荒木さんの自宅は、海沿いの集落、角部内にありました。

荒木さん「ここで家が流れるのを(母親が)見たそうです…」
「私の家に来ました…いやいや…」
「これが私のコンバインです。もうめちゃめちゃです」

原発事故の影響で、海水が引いた後も立ち入ることが出来ず、奥さんの遺体が発見されたのは、40日後でした。
震災前、兼業農家だった荒木さん。原町に住まいを移した後も、ずっと稲作の再開を考えてきました。
しかし…。
荒木さん「12年だよね…すぐ復帰できるならよかったけど、津波と原発事故のダブルでしょう。津波だけの人は2年後には動いている。原発事故で、私たちは基盤整備も遅れてきた」
津波の被害が大きかった角部内では、海岸の大規模な護岸工事に加え、農業用地の新たな基盤の整備にも時間がかかっていました。そうしたことが荒木さんの気持ちを少しずつ変えていました。

荒木さん「最初は震災後ちょっと頑張ってできればいいと思っていたけど、とても個人では無理だ…。だんだんそうなってきて…。前はもう1回やらなくちゃなんねえなっていう気持ちがあったんだけどな…」
荒木さんは、個人での農業再開を断念せざるを得ませんでした。