初めて明かす 父親として一番つらかったこと

父親として当時、1番つらかったことを、初めて明かしてくれました。

田上雅一さん
「本当は子どもにもその現場(自宅)を見せたくはなかったんですよ。やっぱり崩れてるのは。つぶれている所とつぶれてない所ってあるじゃないですか。友達の家は大丈夫だけど、自分ん家はというのが、やっぱり1番彼たちもきつかったんじゃないかなと思って」

田上翔大さん
「お父さんのその見せたくなかったというのも、知らなかったです。両親にはこれまで支えてもらったんで、本当にありがとうということしか、感謝しかないですね」

親への感謝の気持ちは、翔大さんの部屋に表れていました。

田上翔大さん
「机にひび入ってるんですよ、雨でふやけたりして、そのまま雨ざらしになってたりしたんで2~3日」

机は、崩れた家から持ち出したものを、今でも使っています。

田上翔大さん
「せっかく親に取ってきてもらったのを違うのに変えるっていうのは、あんまり想像つかなかったというか、考えなかったですね」

苦労は山ほどありましたが、両親ともに「今の生活は充実している」と口をそろえます。

母・田上弘美さん
「なんか当時はすごいつらかったんですけど。でもあのとき感じた思いとかそういったことは決してむだじゃなかったなと、今とても思います。ものを大事にするとか、人を大事にするとか。地震があったからこそ、そういった絆みたいなですね、家族がやっぱり大事だなと」

最初に出会った頃、将来の夢を「プロ野球選手」と話していた翔大さん。今は新しい夢を追いかけています。

田上翔大さん
「救急救命士を目指そうと思って。元から人の役に立つ仕事をしたいという思いが強くあったんで」

きっかけは地震前にさかのぼります。幼かった妹が突然、発作を起こしたときに、怖くて泣いてしまったという翔大さん。そのとき、救急救命士の隊員が優しく声をかけ続けてくれたことが、ずっと印象に残っていたそうです。いまは熊本市の専門学校で医療を学んでいます。

田上翔大さん
「益城の方で就職したいなというふうには思ってます。周りに気配れるようになるにはやっぱりまず家族かなというふうに思ってるんで、やっぱり家族を大事にしてそのあと周りの人たちもしっかりと気配りができるような人になりたいと思ってるんで」

あのとき、崩れた家から探し出してもらったものがもうひとつ、野球のグローブです。

(中学生当時)田上翔大さん
「これも1つの経験として、お母さんお父さんたちに恩返しをしたいと思ってます」

崩れた家や街を見たあの日から、きょうまで変わらなかった感謝の思い。反対に、あのころとは違う大きく成長した手で、家族やまちの人を守っていく。

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