幼なじみとめぐる母校、約400名が一夜を過ごした小学校

続いて母校の小学校を訪れた宮世さん。待っていたのは3歳の頃からの幼なじみ、高橋秀色(ひいろ)さんだ。

2人の母校は津波で大変な被害を受け、取り壊しも検討されたが、今は植物工場として校舎の一部が活用されている。

あの日、宮世さんが母親の車で学校を離れた後、津波は校舎の2階まで押し寄せ、秀色さんらは3階部分へ避難した。

今も当時のまま残されている3階の小さな音楽室で、同級生や近くの住民ら約400人もの人が一夜を過ごしたという。

宮世琉弥さん
「俺は学校にいたわけじゃないから、秀色たちがどんな経験してるか全然わからないから。どういう感じで津波が来た?」

高橋秀色さん
「まず家が動き出して流れてきて。そこからもう一瞬にして真っ黒い波が流れてきた」

これまで互いに話すのを避けてきた、“震災当日の話”。12年が経ち、2人は初めて当時の経験を確かめ合った。

ーー琉弥君が学校にいなくて心配だった?

高橋秀色さん
「本当に心配でしたよ。帰ったことを僕は知らなかったので、人がいすぎて『どこにいるのかな』って探したりはしたんですけど」

宮世さんには今、秀色さんに聞いてみたいことが…

宮世琉弥さん
「震災を経て、自分がこれからどうしていきたいっていう職業や将来の夢とか理想像ってある?」

高橋秀色さん
「僕は震災を経験する前まではモノを作る仕事、設計士とかが夢だったけど。震災を経て、当時まっさらだった土地を見て、震災復興のために、地元のためになるような仕事に就こうかなと」

宮世琉弥さん
「いのちの大切さっていうのを、もっと色んな人に伝えていきたいよね」

高橋秀色さん
「“いのちの大切さ”が本当に経験できた出来事かなと思う」