存在を忘れられた“日本人” 「日本は私の国です」
戦前の法律では、日本もフィリピンも、子どもの国籍は父親によって決まる「父系血統主義」だった。
日本人の父をもつ残留2世は、法律上は日本人であるにもかかわらず、戦争の混乱で多くの人が日本で戸籍が作れないまま、事実上の無国籍状態に置かれた。
愛子さんもそのひとりだった。
田中愛子さん(95)
「日本から私たちは忘れられたと思った時もあった。戦争があって残された私たちは、もう二度と、日本とのつながりをもつことはできないんだと…」
1970年代以降、反日感情は徐々に和らぎ、フィリピン各地に日系人会がつくられた。終戦から30年近くが経ってようやく、「日本人の子」だと名乗れるようになった。
愛子さんは子どもたちに日本語を教えたり、地域のボランティア活動に携わったりした。
そして、1995年、愛子さんは日本の弁護士の支援を受け、父の戸籍などを手がかりに日本国籍を回復することができた。
父の出身地である熊本県や日本で働くようになった子や孫たちのもとを何度も訪問した。
田中愛子さん(95)
「それはもう嬉しかったですよ。言葉にできない喜び。あのときの寂しさや悲しさは忘れない、元のような暮らしに戻ることもできない。でも、日本人と認めてもらえて、いつでもこうして日本の人たちに会うことができる。子どもたちも三度のご飯が食べられる」
「日本は私の国です」
日本国籍の回復に司法の壁 背景に“激しい反日感情”
これまでに把握されているフィリピンの残留2世は約3800人。そのうち2000人近くが日本国籍を回復できないまま亡くなった。
20年以上にわたり残留2世を支援し、332人の日本国籍の回復を実現させたNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(PNLSC・東京)によると、日本国籍を希望する生存者は34人(26年3月時点)にまで減った。
国籍回復のためには、日本の家庭裁判所に戸籍を新たにつくる「就籍」を申し立てる必要があるが、司法の壁は高く、申し立てが却下されるケースが相次いでいる。
フィリピン日系人リーガルサポートセンター・猪俣典弘代表理事
「戦中、戦後の激しい反日感情のなかで、自分が日本人である証拠を隠さなければいけなかった。父親との写真や手紙、自身の出生証明書、両親の婚姻証明書などを隠してきた。国籍を回復するためにはそれらの書類が必要だが、散逸または滅失してしまって、公的資料を探すのは非常に困難」

















