「表現の自由」に伴い生まれた名誉毀損罪の「免責要件」

その前に少しだけ歴史的経緯に触れておこう。

名誉毀損法制はもともと為政者の批判を許さないための法制度であった。日本でいえば明治政府が政権樹立とともにすぐ作った讒謗律は、当時の政権中枢であった天皇・政治家・高級官吏(官僚)への批判を封じるためのものであり、いまの名誉毀損法制とは似て非なるものだ。

ではなぜ変わったかといえば、まさに刑事名誉毀損の変化が、表現の自由の「拡張の歴史」そのものであり、権力者への批判の自由をどこまで認めるのかであったといえるからだ。

日本の場合、戦後、表現の自由の保障が確立することに伴い刑法が改正され、名誉毀損罪に追加条項(注1)ができた。これは世界の潮流にあわせたものであって、いわゆる「免責要件」と呼ばれる、公共性・公益性・真実性をもって、形式的には名誉毀損罪が成立はするが、罪には問わない(違法性阻却)ことを定めるものだ。

表現の自由の行使は、一般論としてその限界点が見えづらく、どうしても自制(自粛)をしがちな特徴を持ち合わせるが、まさに、権力者への批判の自由をしやすくするための知恵の結晶である。

(注1) 第230条の2 前項第1項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。

さらに第230条の2第2項が、事件報道に大きな役割を示している。そこでは、「公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす」とし、実際の運用としては、警察が逮捕段階で公式に発表した事項は、「自動的」に免責要件に該当し、会見で開示された氏名を実名報道する行為が名誉毀損に問われることはない、ということになる。

もちろん最終的には司法判断によるわけであるが、一般的なジャーナリズム活動であれば「私憤」ではなく「公憤」に基づき報道をするわけで、それはみんなのため(公益性)であり、広い関心事(公共性)であるとみなされることが一般的である。したがって、きちんとした取材で事実の証明さえできれば、どんなに厳しい批判をしようが、その報道対象がどんな権力者であろうが、許されるという法の保障はジャーナリズム活動を強くサポートしている。

なお、同じ名誉毀損法制である侮辱罪(注2)には免責要件がないことには注意が必要だ。せっかく名誉毀損罪は免れても、侮辱罪で訴えられては元も子もない。とりわけ2022年に侮辱罪の厳罰化が実現し、拘禁刑が設けられ罰金の額も引き上げられることで、侮辱罪リスクは格段に高まったことは否定できない。

(注2)第231条 事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、一年以下の拘禁刑若しくは三十万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。

しかし、メディアが名誉毀損罪や侮辱罪で訴えられるのは民事訴訟であることを考えた場合、刑法の規定がそのまま民法上で適用されるわけではないにせよ、侮辱が不法行為として認定されるにあたり、一定程度名誉毀損の免責要件の考え方が準用されることが想定されている。

ちなみに、名誉毀損リスクを低減させる、すなわち為政者に対する批判の自由を拡大させるための方策として、従来はアメリカを中心に判例上で「現実の悪意」理論として、ジャーナリストが悪意を持って(前述の私憤により)報道したものでなければ、それは真実であるとみなすという工夫がなされてきた。さらに昨今の欧州では、そもそも刑法から名誉毀損罪をなくせばリスクが解消するとして、名誉毀損はもっぱら民事上で争うものとして、刑法典から削除する流れができている。

そうしたなかで、日本ではまさに逆張りの法改正による刑事罰強化がなされたわけであるが、侮辱罪強化が議論された法制審議会では(再審法審議でもわかる通り、学界を代表する高い見識というよりは、役所の代弁のような議論内容で、極めて杜撰であるが)、免責要件を設けない理由として、刑法第35条があるから、という言い方がされていた。ではいったい、これはどういう規定なのか。