15年前に感じた“見えない恐怖”

私は2011年の震災当時、制作部で朝の情報番組のMCを担当していた。あの日は、3分ぐらいの激しい揺れに襲われ、その直後に沿岸部の被災地へと取材に向かった。到着した現場は、南相馬市という第一原発の北側20~30キロにある場所だが、夕方、現地に到着しても、津波被災地の被害はほとんどと言っていいほど不明だった。

被災した高齢者施設の取材に向かう途中で、路上に置かれたままになっているご遺体を見て、「とんでもない災害が起きた」と初めて理解したように思う。

2011年3月12日 南相馬市原町区の津波被災地を取材する筆者

福島第一原発にしても、私は県政記者クラブも担当していたため、事故前に数回入域していたので少しは知っているつもりではあった。地震直後、福島第一原発と第二原発が心配だったが、東京電力からの「スクラム(自動停止)した」という話を聞いて、少しだけ安堵していた。

しかし、その後の危機的な状態に陥っていた第一原発の情報は、取材先の私には全く入らなかった。翌日の午後1時ごろ、本社からの「第一原発が危ない。早く本社に戻れ」という連絡は寝耳に水の話だった。1号機は、その約2時間後に水素爆発を起こした。

私が事故前に原発に入った時は、取材終了後の個人線量計の数値はいつも「0マイクロシーベルト」を示していた。原発事故直後の3月15日、北西に60キロ離れた福島市の数値が「毎時20マイクロシーベルト」を計測し、個人線量計のアラームが鳴っているのを聞いた時、初めて未曾有の原子力災害に見えない恐怖を感じたと記憶している。

取材者として、震災を「経験した記者」と「経験していない記者」の差はやはり大きいと思う。それでも、私たちは伝え続けなければいけない。