まるで讃美歌のような「愛生園挽歌」
(沢知恵さん)
「長島愛生園で出会った歌の中に、《愛生園挽歌》があります。
挽歌は、亡くなった人を見送り、弔う歌です。長島愛生園では、慰霊祭などで歌い継がれてきました。この歌は、他の歌とは違うなと思いました。
『民族浄化』『一大家族』などのおどろおどろしい言葉は出てきません。
曲調も手伝って、賛美歌のようだな、黒人霊歌みたいだな、と思いました。
この歌は残ってほしい、100年先にも誰かに歌われてほしいという願いを込めて、私のアルバム、『花はどこへ行った』に収めました」

(沢知恵さん)
「《愛生園挽歌》は、長島愛生園が開園した次の年の1931年に発表されました。園歌とほぼ同時期です。
作詞した黒川眸(ひとみ)は男の人で、実名ではありません。宮沢賢治と同じ岩手県の生まれです。
東京の全生病院、現在の多磨全生園に入所して、『開拓患者』の一人として長島に来ました」

(沢知恵さん)
「『開拓患者』という言葉を初めて聞いた方もいらっしゃるかもしれませんね。1909年に、日本を5つのブロックに分けて、公立のハンセン病療養所ができました。
青森、東京、大阪、香川、そして熊本に、道府県連合立で運営されました。
1930年に、初めての『国立』のハンセン病療養所が、岡山の長島愛生園が開設されました。
全生病院の院長だった光田健輔は、長島愛生園の初代院長になることが決まっていて、患者たちに声をかけました。一緒に長島愛生園を『開拓』しようではないか、と。
すると、たくさんの人が手をあげ、その中から81人が選ばれて、『開拓患者』として長島に連れて来られました。
黒川眸は大変なインテリで、熱心なキリスト教徒でした。翻訳書も残しています。
黒川はこの歌を作った次の年に、病気で亡くなってしまいました。25歳の若さでした。
では、《愛生園挽歌》をお聴きください。
作曲したのは園歌と同じ、地元との音楽教育者で軍楽隊にいた光岡米造です。
此の世にありては 共によろこび
尊き御代の 光の内に
此の身の幸をば 共にうたいし
友等は逝けり 遠きみくにに
うき世の苦しみ なげき悩みも
肉のほろびと ともにけ失せて
みたま安けく 友ら憩へる
みくにしのべば 思ひはるけし
遠きみくにの ありか知らねど
よき同胞の 姿見えねど
再びまみえむ 日をぞのぞみつ
我等がこころ おどる嬉しさ
『愛生園挽歌』でした」














