「軍神」の実像と熱狂の先

その先にあったのが、沖縄戦だった。

戦後80年の慰霊の日。24万を超える人々の生きた証が刻まれる平和の礎に、多くの家族の姿があった。恵子さんも兄のもとを訪れた。

山田恵子さん
「ここにいますかね、まだガダルカナルにいるんじゃないですかね」

そこには、もう一人、姉・大舛清子さんの名が刻まれている。ひめゆり学徒隊として沖縄戦に動員されていた。

師範学校に通っていた1944年夏、兄の慰霊祭のあと、与那国に帰省すると本島の学校に戻るよう命令が出た。だが、「帰りたくない」とこぼしていた。

山田恵子さん
「虫の知らせで『帰りたくない』って言っていたのか、『せっかく(学校に)入ったんだから、最後までやってきたら』って言って、それで帰ったんですけど、それっきり帰ってこない」

清子さんは、軍神の妹として取材を受けていた。記事には「私は兄の名誉の戦死を嬉しく思っているのです。私も負けずに必ずやり抜くつもりでいます(毎日新聞1943年10月21日付)」と書かれている。清子さんを取材したという別の新聞社の記者から、保坂さんはこんな話を聞いていた。

琉球大学元教授 保坂廣志さん
「最初に行く前は、軍神のきょうだいだから勇ましい女性だとばかり思っていたみたいです。ところが、全然逆だった。話はしてはくれるけど、触れないでほしい、書かないでほしいみたいな、家族としては悲しいことだったかもしれない。それは取材していたときに感じたと。ただし、新聞はそうは書けない。そのため戦意高揚をあおるように自分は記事に書いたと」

清子さんは、本意ではない軍神の妹としてのふるまいを求められた。その末に、海岸付近で砲弾に倒れた。

そんな姉や兄を思い、恵子さんは短歌を詠んでいる。

「『一年生』のわれにと服を贈りくれし『ひめゆり』の姉は骨さへ帰らず」

「往く兄の握りたる手の温もりと 託されし想ひ今に忘れず」