「軍神大舛」は沖縄中に広がっていた。瀬名波榮喜さんが通った北部の小学校でも。
瀬名波榮喜さん
「黒板の右側に『山本五十六元帥に続け』と、左端のほうには『大舛大尉に続け』というスローガンが両脇にあった。小学校の生徒でありながら、ああいう軍人になりたいなと、そういう気持ちを子どもたちに植え付けた」
軍神は、皇民化教育の徹底と強く結びついた。

瀬名波榮喜さん
「やはり『皇国史観』ですね。天皇は神聖にして侵すべからず。大舛大尉も人間でありながら神格化される。そうすると神に対して絶対的信頼を置くわけですから」
当時14歳の古堅実吉さんにとっても、その存在はあまりに大きかった。

古堅実吉さん
「『知らざる者を許さん』という存在に置かれていたのが、大舛大尉だった。体中、徹底して打ち込まれた存在の一人でした」
師範学校入学試験の面接で、尊敬する人を問われた。
古堅実吉さん
「尊敬しているのは本当は教師だったのに、『尊敬するのは大舛大尉だ』と言い切った。そう言うんだよと教え込まれていたのではなかった」
沖縄戦直前、3回忌が近づくと、また紙面に「大舛」の文字が躍る。命日の翌日には、「大舛軍神」の言葉。そこにあるのは、必勝の信念の源は「死」という、死を立脚点とする考えだった。その日の社説はこう訴えている。
沖縄新報 1945年1月14日付
「大舛精神は、最後に死を選ばなければならない場合においては死ぬことによって不滅の勝利を確信するの精神」

教育界が死ねる教育を徹底すれば、新聞は死の覚悟を説いた。それは、瀬名波少年の心にも根付いていた。当時、戦死者が出た家には「誉の家」という札が掲げられ、周囲から尊敬を集めた。
瀬名波榮喜さん
「それを見るたびに、『俺の家にそれがないのか』と。いつか大きくなって、この『誉の家』という札が掲げられるようにと考えていました」

琉球大学元教授 保坂廣志さん
「極論は、軍神大舛精神は死ぬる精神。死というものと一体化する。普通の市民生活をしている中で、教育とか新聞社とか何か言い始めたときに、県民はどこにも逃げる道はない」














