そして、変わりゆく故郷の島の風景を憂う。大舛を生んだ与那国島には、2016年、自衛隊駐屯地が完成。政府は当初、警戒監視のためと説明していたが、ミサイル部隊の配備を決めた。

「最果ての島に林立電波塔 ミサイルはここにと招くがごとく」

そのミサイル配備に慎重姿勢を示す上地常夫新町長。自衛隊とアメリカ軍との大規模訓練計画にも異を唱え、規模は縮小されたが

上地常夫 与那国町長
「最終的に私が何言おうと、防衛省はやるときはやりますよ。国の専権事項だと言ってやるんですけど、我々町民の負担、心の負担という意味を考えると、それはあまりなじまないなとは思っています」

与那国をめぐっては、かつて琉球処分に至る過程で、明治政府がある通達を出していた。

1873年、外務省が琉球藩に宛て、久米島、宮古島、石垣島、西表島、そして与那国島に国旗の掲揚を命じた通達だ。政府が琉球の領有権を内外に示すためだった。

だが、台湾との交易もさかんな与那国では、清国との関係悪化を危惧する声があがっていた。それから152年。

上地常夫 与那国町長
「東京の皆さんが情報を得るのと、我々がここに住んでいる肌感覚は違うんです。我々は有事があるとは全然思っていなくて、むしろ台湾とどうやって友好関係を結ぶか、どうやって経済関係を結ぶかと一生懸命なんです。でも、東京の方は何か有事があるかもしれないと。ちょっと違うような気がしますね」

かつて国家があおり、民衆が熱狂し、異論は封じられた。その象徴が「軍神」だった。

古堅実吉さん
「それを国民は受け入れる以外に認められない。そのような存在に置かれて、戦争でゆがんだ道をまっしぐらに進むことが求められた」

その道を先導したのがメディアだった。

琉球新報客員編集委員・毎日新聞客員編集委員 藤原健さん
「新聞はどちら側に立っているのか、つまり国の側に立っているのか、あるいは民衆の側に立っているのか。国策という名の軍事に国民がからめとられていく。それを負の教訓として、なぜそうなったのか考え続けることで二度とああいうことをしてはならない。二度とシンボリックな人を作ってはならない」

山田恵子さん
「『人を勝手に祭り上げて、勝手に軍神にしやがって』と言ってるんじゃないかと私は思っています。軍神でも何でもない、ただの兄貴なんですよ」

大舛の戦死に、人前では決して泣かなかった母・ナサマさん。敗戦から29年経って発見された小野田寛郎さん帰国のニュースに、こうつぶやいたという。

「どんなに身体が不自由になってもいいから、松市も帰ってきたらいいのにさー」