メディア・教育が扇動 死の精神

戦死から9か月。軍神となった大舛の顕彰運動はすさまじいものだった。関係者が集まっての座談会に、恩師、母校、実家それぞれをテーマにした特集。大舛大尉伝の連載は136回に及び、戦死したさまが、いかに壮絶だったかを強調した。
さらに大舛に続くと意思表明する生徒たちの声。

毎日新聞 1943年11月10日付
「こんどの感状は沖縄県としての誇りでありまして、県民なかんずくわれら学徒の心に深く刻み込まれ、ただ大尉に続かんの決意を一層強くしたのであります」

紙芝居も作られた。生まれてから軍神になるまでを21の場面で描いている。新聞に連載され、各学校でも上演。県内各地で、大舛の功績を顕彰する大会が頻繁に行われ、地元与那国村民大会も大盛況。教育界も一翼を担った。県の教学課が先頭に立ち、その生涯に学べと「大舛精神」を浸透させることに躍起になった。
與座章健さんは、県立一中の大舛の後輩だ。

與座章健さん
「“大舛大尉に続け!”中学生がはっぱをかけられた。毎日毎日の学校の朝礼の場で校長からはっぱかけられるし」
校長は、こんな檄を飛ばした。
朝日新聞 1943年10月27日付
「一中は大尉に続く兵営であり、戦陣である。皆志を立てて、大尉に続く烈々の気迫を示し総決起すべし」
それは、「死ねる教育」の徹底といえた。
與座章健さん
「そういう先輩がおったということは在校生に、大きな一つの方向性を、一つの目標を与えたでしょうね。“軍神大舛に続け”と」
その言葉を前に、生徒も教師も異論は封じられた。

與座章健さん
「この時代に、これに対する考え方は、こうでなければいかんと思うのが確かにおるけど、声を上げられない、『黙ってろ』という時代だった」
戦死を美化する価値観は、歌によっても植え付けられた。与那国出身の翁長梅子さんがよく覚えていた。

『噫々 大舛中隊長』
「決戦続くソロモンのガダルカナルは堺台 ひしめく米鬼斬り伏せて 起てり大舛中隊長」
歌詞は8番まであった。
翁長梅子さん
「黒板に書いてあるから、これを見て覚えるわけ。必ず一週間に一回は歌いなさいって」














