AIだと知ったときの「がっかり感」
岩井:それでいうと、すごく綺麗なイラストがタイムラインに流れてきて「いいな」と思っても、「AIで描いています」と書いてあると、「なんだ」と言って流してしまう。この感情について、あまり議論されていないと思うんです。
野村:AIだと知った時の「がっかり感」というのは、テクノロジーの発達という問題ではないのだろうなと思いますね。
岩井:先日読んだ前田安正さんの本に、すごく面白い話がありました。「文章(ぶんしょう)」と「文書(ぶんしょ)」は違うという話です。
「文章」とは書き手の思いや考え、感情が現れたものであり、「文書」とは単なる文字の連なりです。AIはおそらく「文書」を書くことに関しては非常に長けていますが、「文章」は書けない。なぜなら、AIには思考から生まれる思いや考え、感情がないからです。
野村:確かにそうですね。
岩井:例えば、お役所に提出する書類やビジネスの企画書のような「文書」であれば、AIが書くことで効率化されて良いのかもしれません。しかし、小説や詩、俳句といった世界で求められているのは、書き手の内面が反映された「文章」なのだろうと思っています。
創作物における棲み分けと、人間らしい「偏り」の価値
野村:今回、AIポッドキャストを試してみて、人間らしい「偏り」がまず大前提として必要だと感じました。その偏りをAIがそれっぽく再現し始めた時に皆がどう思うのか、と考えたこともありますが、もしかしたらどこまで行っても、AIが作り出した偏りに人間はあまり心を動かされないのかもしれません。
岩井:裏側に人間が作っているという事実があって、それで初めて我々は興味を持つのかもしれない。創作物の中でも、もしかしたら今後、位置付けが分かれていってしまうのかもしれません。例えば、隙間時間に少し楽しむだけのものだったらAIでもいいけれど、休日にしっかり腰を据えて読むような大長編は、やはり人が書いたものでないといけないよね、というように。
野村:可能性はありますね、確かに。
岩井:今のAIは、何か「お手本」があってそこから学習する機械学習のシステムですよね。このシステムが続く限りは、人間が作るものの価値を超えていくのはなかなか難しそうです。全く違うアルゴリズムで再現できたら、可能性はあるのかもしれませんが。














