真珠湾攻撃と東京大空襲

これは1941年12月8日、日本がね、ハワイ真珠湾を攻撃した時にその呉の海軍のね、上田(かみた)さんという人がね、いよいよここで家族と別れるんでバス停でね、送っておるんです、妹2人がね、泣きじゃくったそうですよ。もう亡くなるんですからね。ハワイで、真珠湾で潜水艦でね爆弾落として。これがそのときの様子ですけどね。真珠湾では多くのアメリカ人を殺し、たくさんの船舶に危害を与えたんですよ日本はね。これがそのときの上田、上田(うえだ)って書いてありますけどね、実は上田(かみた)さんなんですね。私の町の人です。

それから4ヶ月後にね。私は東京の板橋というところで生まれました。こういうかわいい時代もあったんですね。皆さんもそうやね。そして東京大空襲。アメリカはよく知ってますからね。

ものづくりの一番盛んなのは東京の大田区、羽田空港の近くですよね。あそこが一番先に狙ったんですアメリカは。こういうふうにね、大田区からね。品川区それから江東区、墨田区の方がね、どんどん爆弾でアメリカから1,000機の飛行機が飛んできて落としたからもう逃げ場がないよね。みんな川に飛び込んで亡くなったということがありました。

父の出身地、広島へ疎開

私は板橋区というて埼玉県に近いところに住んどったんでこの日は爆弾に遭いませんでした。それで、もう東京にいると危ないんで、父の出身地広島へ疎開しようということになって広島へね、疎開したんですよ。

これは皆さんご存知の原爆ドーム。原爆が落ちる前の原爆ドームですね。私の父はすぐに国鉄に勤めるようになりましてね。今はねみな電車ですよね。当時は石炭を燃やしてね、動く蒸気機関車、蒸気機関車の整備が私の父の仕事でした。

3歳で経験した原爆

そして8月6日ね。1945年8月6日の午前8時15分に広島に原子爆弾が落ちたんですよね。広島に落とされた原子爆弾はウラン。長崎はプルトニウムで、原爆を考えた人はアメリカのね、オッペンハイマーという人が考えたんですよ。映画ができましたがね。

私は家の前に遊んどったんですよね。ピカッと光ったんで、雷ぐらいしか思わなかったんですよね。子どもですから広島が大ごとになっとるとかね。

これが当時アメリカのテニアン島からB29爆撃機が何機も飛んできて、1機は原爆を落とす役、1機はこういうふうに写真を撮るわけね。なんせ初めて使う原子爆弾ですからね。アメリカもわかってないんですよね。だからすぐ写真はばんばん取ったそうです。

これが原爆投下後の午後、私の家の前をね、ぞろぞろぞろぞろ髪はボサボサ、服がボロボロ、履き物は履いたり履かんかったり、そして水をくれとかね、そんなことを言いながら、1人の女性が私の家へ寄られまして、この缶詰を開けてくれっていうんでね、桃の缶詰でしたが母がすぐ缶切りで開けたら、それを食べながらね、広島から何も食べずにね、私の家の前の方まで帰ってきたんですよね。そして桃の缶詰を食べながら、山奥の方へ帰って行かれたそうです。