批判必至の方向転換 村山元総理の覚悟

当時、新党さきがけの代表代行として、村山さんに総理就任を打診した田中秀征さんは...

福山大学 田中秀征 客員教授 (元新党さきがけ代表代行)
「もう声まで覚えている。(村山さんは)『あんた、わしをバカにしているのか』と怒鳴った。いつ総理になる覚悟をしたんだと聞いたら、『首班指名された時だ』と。それまでやる気はなかった。そういう(無欲な)人」

そうして発足した村山内閣は、それまでの社会党の方針を一転させ、自衛隊を「合憲」とし、日米安保を認めるなどしたのです。

村山富市 総理 (1994年8月当時)
「これくらいは踏み切って乗り越えていかなければ、政権党の役割は果たせない。それは何も理念を変えるというわけではなく、現実に対応するべく政策は変える必要がある」

「現実」に合わせようと、大きく舵を切った村山さんは、「自社さ」の連立についてこう語っています。

村山富市 元総理(日本経済新聞社「私の履歴書」より)
「自民党と社会党は憲法問題、防衛問題、歴史観の相違などから激しい対立を繰り返してきた。それが一転して連立したため“野合政権”と批判された。しかし新政権はこの立場の相違をお互い認識し合い、きちんと政策合意し、信頼に基づいて発足し、国政を進めた」

当時の村山さんの姿勢について、田中秀征さんは...

福山大学 田中秀征 客員教授 (元新党さきがけ代表代行)
「村山さんはおそらく意識していたと思う。あのまま保守・革新の流れでいたら、冷戦終結後の世界じゃ通らない。自衛隊と安保のことについては悩んで、もっと現実的な政党になろうと。(自社が)一緒に(連立)政権に入ることによって合意を見いだした。相当叩かれるはずなのに、すべて自分の責任としてね。村山さんみたいに『無私な人』にしかできない決断」

長年対立してきた自民党と連立するために、全ての責任を負う覚悟だった村山さん。

しかし、95年7月の参院選では、連立に伴う方針転換に、厳しい審判が下り、社会党は大敗。そうした中、迎えた「終戦の日」。歴史に残る、戦後50年の『村山談話』が発表されます。