最初からバランスを無視した建設

数々の設計変更で、予定されていた柱の直径は細くなり、柱の数も鉄筋も削減されました。
当時から「強度不足」は囁かれていましたが、そのまま建設が進められました。

そもそもの柱の本数が少なく、コンクリートが脆い。数々の不備が後に指摘されました。

さらに内部の壁を撤去して売り場を拡張したことも、荷重バランスを崩す要因となりました。5階をレストラン街に改装した際、床暖房設備や大型の厨房機器、大理石などの内装が追加され、屋上には87トンもの冷房装置が設置されました。
そもそも強度不足だった建物は、そうした荷重に耐えられず、その日一斉に崩れたのです。

韓国のテレビ各局は現場に特設スタジオを作り、連日、事故内容をレポートし続けました。

事故後の補償、しかし…

事故後、経営者や建設関係者、行政関係者に対して刑事責任が問われました。経営トップは業務上過失致死罪で実刑判決を受け、瑞草区長をはじめとする複数の行政担当者も収賄や職務怠慢で起訴されました。韓国政府は現場を特別災害地域に指定し、被災者や遺族に対して約4000億ウォン、日本円で500億円を超える補償金を支払いました。

三豊百貨店の事故は、今でも韓国民に心の傷を残しています。(左:国会内の事故原因糾明委員会、右:仮設の遺体安置所)

隣国で起きたこれだけの崩壊事故。しかし、死亡者が500人以上という事故の大きさの割には、日本での報道はそれほど多くありませんでした。それは1995年という年の特殊性にあったといえます。

どこから手を付けていいか分からないような現場からでも、生存者の救出が行われました。

1月に阪神淡路大震災、そして、3月にスタートした一連のオウム真理教事件報道。さらに、住専ほか数々の金融機関の破綻。
この年は天変地異や大事件だらけの奇妙な1年だったのです。