被爆体験は「被爆太郎の物語」に結晶化していく―。45年前、私財を投じて被爆者1000人の声を記録したNBC長崎放送の元記者・伊藤明彦さん。没後16年、本の復刊、ドラマ化、そして講談にする人も現れ一気に注目が高まっています。芥川賞作家の青来有一さんが「レベルが違う」と脱帽した伊藤さんの著書の名前は「未来からの遺言」。被爆者なき時代が迫る中、多くの人の心を揺さぶっている伊藤さんの未来からの遺言とは?
伊藤明彦さんの著書『未来からの遺言―ある被爆者体験の伝記』より「私はそれまで、いわば刑事のつもりでした。被害者の調書をとって歩く、よれよれのレインコートにどた靴をはいた刑事です。これからは放火犯になりたいと思いました」 伊藤さんのたくらみが静かに燃え広がっています。

東京在住、講談師の神田伊織さんです。講談の世界に入った2016年、偶然手にした伊藤さんの本に魅了され、その本を原作に新作を書き上げました。講談「被爆太郎の物語」。

講談「被爆太郎の物語」のようす 講談師・神田 伊織 さん「この書物の題名を『未来からの遺言』と言います。著者は伊藤明彦さん。1003人の証言者の中で最も印象深かったある人物が取り上げられております。仮の名前を吉野啓二さんと言います」

講談師・神田 伊織 さん「すごい傑作、知られざる傑作を見つけたというような興奮がありました。伊藤さんの人生にも圧倒されますし、吉野さんの存在自体は衝撃的ですし」

東京生まれ、長崎育ちの伊藤明彦さん。NBC長崎放送に勤めていた1968年、32歳の時に、被爆者の証言を紹介するラジオ番組「被爆を語る」を立ち上げました。

しかし放送開始5カ月後に異動を命じられ、それを機にNBCを退職。

1人で全国をまわり、70年代の8年間で1003人の被爆者の声を記録しました。

収録を終えた2年後の1980年に出版したのが「未来からの遺言」です。吉野啓二さんという吃音の男性を巡るミステリーを「被爆太郎」という寓話的な人物像へと昇華させていくノンフィクションです。

編集者・西 浩孝 さん「あれ誰にも書けないんじゃないですか、多分ああいうことは。『被爆太郎』というのに人間の被爆体験を昇華していく、生み出していく」

編集者の西 浩孝さん。2017年、『未来からの遺言』を偶然手にし、その非凡さに取りつかれ、伊藤さんの全作品復刊に取り組み始めました。

被爆80年、第1巻として『未来からの遺言』復刻版を出版しました。

編集者・西浩孝さん「みんな日本が成長していく時代に1人でやっていたわけですから…切なさなんですよ。なんでこんなことまでした人が忘れられてるんだろう…みたいな切なさ」

芥川賞作家・青来 有一 さん「90年代の後半に私読んだと思うんですけど、これはものすごいなと思いました、読んだ瞬間から。全くレベルが違う。いないですよ、こういうの書いた人は」

芥川賞作家・青来 有一さん。伊藤さんを高く評価してきた一方で、注目が集まる今、ある危惧を抱いています。

芥川賞作家・青来 有一さん「(伊藤さんと)直接会った方は必ず言われるの、いや大変だったんですよって。私はその実像は大事だと思う。それも含めて伝えていって、人間色んな偏りがある中でこんな素晴らしい仕事ができるんだというためにも、とにかくスーパーマンがいたんだという話にしてはダメ。これだけの素晴らしい逸材を見失うと思う」

1人で千人。しかも半世紀前。何を思い、進んだのか?

東京に兄が住んでいます。

伊藤 公彦 さん。明彦さんとは二卵性双生児です。

双子の兄・伊藤 公彦 さん「酒飲んでバカ話する、俺との関係はそれだけ。彼と真面目な話したことないくらい。結局意地だと思う。なにくそ!じゃあ俺が1人でやったるわ!という感じじゃないの?最初は。身近に(被爆者)を見たってわけじゃないからね、むしろ後からの知識だと思う、そういうこともすべて。偉大な高潔なすごい人じゃないから。ちょっとだけえらいことやっただけで、女好きでもあったし普通の人間だったから、僕はそっちの方を知ってほしいくらいの気持ち」

番組の担当を外され「意地」で始めた記録作業。2年で200人、3年で400人、8年で1003人。繰り返し千人の声を聞き続けました。

生前の伊藤 明彦 さん「我々が出してる地獄の声をお前聞けって。のうのうと生きてて何してるんだお前は。彼らに招かれて僕はとうとうここまで来たんですからね」

伊藤さんの番組を制作したNBC長崎放送の元記者・関口 達夫 さん。迷い苦しみながら進んだ伊藤さんだからこそたどり着いたのが「被爆太郎」という発想だったと考えています。

NBC元記者・関口 達夫 さん「カセットテープに作品を作って寄贈する、そういうことをやってきたんだけど、それがどうもあまり聞かれていないと。調べるわけですよ、彼はああいう性格だから、実際どのくらい使われているか。そしたら寄贈した図書館がそれを廃棄してたとかさ。『これは被爆太郎だ、民話だ』と、そういうことを言った人はいないもんね。それはやはり千人苦労して取材してきた、その伊藤さんにしかたどり着けなかった結論だと思うね」

体に入れ続けた声ー。
琵琶法師が語る平家物語のように、被爆者の体験はやがて「被爆太郎の物語」として結晶化し語り継がれていくと伊藤さんは空想しました。

生前の伊藤 明彦 さん「このCDの作品の中にね『助けてー』って言う声が家の下から聞こえてきたって。『助けてー』って仰るわけ。その声がまさに私らの耳に入って来るわけですよ」

NBC元記者・関口 達夫 さん「彼自身が被爆太郎だと思いますよ。多くの被爆者の話を聞くことで、自分があたかも被爆したかのような感じになる」

被爆者の声を「被爆太郎の物語」そして、自分の物語へ。

講談師・神田 伊織 さん「話を読んで感動した人間は、みんな被爆太郎になるんじゃないですかね。それが伊藤さんの願いだったんじゃないかと思いますけどね」
※伊藤明彦さん原作の講談「ナゾの被爆者 被爆太郎の物語」は、24日(日)午後1時半~長崎原爆資料館ホールで上演。今回話を聞いた4人が登壇するトークセッションも予定している