94歳の声楽家の男性の戦争体験をお伝えします。今も歌い続ける訳には、終戦の4日前に戦死した“兄の存在”がありました。

「歌で送った」忘れられない最愛の兄の出征

94歳の声楽家、浅岡節夫さん。
今も歌い続けるのには、80年前の戦争で亡くした“最愛の兄”の存在があります。

浅岡さんは、1945年3月、あの「東京大空襲」に襲われ、親戚を頼って家族で富山に疎開。
しかし8月、今度は富山で空襲が…。2度も「大空襲」に見舞われるという経験をしました。

浅岡節夫さん
「空襲の時は本当にひどかったからね」

未明に疎開先を襲った、焼夷弾の雨。

浅岡節夫さん
「庭に逃げたら周りが先に燃えています。布団を持ち出して水をぶっかけて、そして、それを被って。火の海をくぐっていくんですから」

浅岡さんが音楽を始めるきっかけとなった、兄・正樹さんは、終戦の約1年前に出征が決まります。

浅岡節夫さん
「(戦争に)行くと決まったので家庭で送別会をやります。そこで歌を歌って。『太平洋~』と勇ましい歌を歌って送った」

戦時中も、たくさんのレコードを聴かせてくれた兄。出征する日の光景を、今でも鮮明に覚えています。

浅岡節夫さん
「あの当時の戦争の様子からみて、行ったらもうそれでおしまいだと。家の前から角まで100メートル。その間だけれども、涙ぽろぽろで送った。角を曲がる時に兄貴が『さようなら』と一言言いました」

そして迎えた終戦。兄の帰りを待っていました。

浅岡節夫さん
「(兄の)骨、これくらいしかなかったけどね」

小さな骨だけが入った箱が届きました。
昭和20年8月11日、北京にて戦死。終戦のわずか4日前でした。