最後の生き証人のメッセージ

学生の日常風景を絵にしただけで、投獄された菱谷良一さん(103)。1942年12月、1年3か月の勾留を終え、釈放された。

翌年に行われた裁判で、懲役1年6か月、執行猶予3年の判決を受けた。逮捕されたことで学校は退学処分に。美術教師になる夢も絶たれてしまった。

自宅に戻って2か月が過ぎた頃、菱谷さんは箪笥の中から妹の赤い帽子を見つけた。それをおもむろに被ると、急に創作意欲が湧いたという。

菱谷良一さん
「メラメラと制作の意欲が燃えた。だから思いっきり描いた」

これがその時に描いた「赤い帽子の自画像」だ。抑え込んできた怒りと精一杯の皮肉が込められていた。

菱谷良一さん
「俺にこんな扱いをどうしてしたんだという怒りを、爆発させた絵。アカ(共産主義者)だと言ったから、妹の赤い帽子を被って、本当はアカ(共産主義)じゃないけれど、これでどうだって。皮肉。お前らがそう言うならどうだって」

その後(1944年)、陸軍の補充兵として召集された菱谷さんは、帯広の飛行師団司令部に1年半勤務したのち、終戦を迎えた。

1925年から終戦まで、20年にわたり運用された「治安維持法」。検挙された人は10万人前後にのぼるといわれている。のちに、“稀代の悪法”と言われたこの法律は、終戦後、GHQの命令によって廃止された。

菱谷さんは現在、旭川市内の老人ホームで暮らしている。

看護師
「いつも部屋の窓からここを見ていたわけですね?」

菱谷良一さん
「そうだね、これ(この景色)を描いているんだ」

看護師
「ここの景色もいいですよね」

菱谷良一さん
「ひとりで来れるといいな。できればこういうところに小さい椅子を持ってきて、スケッチでもしたいなと思う」

これまで国は、治安維持法による弾圧を受けた人たちに対し、謝罪や賠償は一切していない。それどころか、8年前のいわゆる共謀罪法を巡る審議の中で、当時の法務大臣はこう答弁していた。

金田勝年 法務大臣(2017年6月2日 衆院法務委員会 当時)
「治安維持法は、当時、適法に制定されたものでありますので、同法違反の罪にかかります、勾留拘禁は適法でありまして、刑の執行により生じた損害を賠償すべき理由はなく、謝罪及び実態調査の必要もないものと思料いたしております」

菱谷さんは謝罪と賠償を求めてきたが、何度ただしても、真剣に向き合わない国の姿勢にうんざりし、今年(2025年)は請願に行かないことを決めたという。

菱谷良一さん
「何も先生方は反応ない。弁償金は出せないけど、みんなで頭下げますくらいでもいい。100年前にどれだけ、罪もないのにな」

治安維持法制定から今年でちょうど100年。最後の生き証人となった菱谷さんは、再び、あの時代に戻らないことを強く願っている。

菱谷良一さん
「戦うの嫌、平和にいたい。声出すよ、死ぬまで。『平和を』と言って死ぬかもしれない」

日下部キャスター
「菱谷さんが一番大切にしてきたのは平和と自由?」

菱谷良一さん
「そうなの、それしかない」