原爆投下 小倉ではなく、なぜ長崎に

しかし、8月9日原爆が投下されたのは小倉ではなく長崎でした。

なぜ小倉に原爆が投下されなかったのでしょうか

平和のまちミュージアム 学芸員 小倉徳彦さん
「(小倉市の)浜田市長の声明文にあるんですけど、干天の空と書いてあるんですよ。晴れている空と書いてあるんです。曇りというよりは視界が悪かった。煙やもや等で視界が悪かったというのがどうやら正しいようですね」

晴れているにも関わらず、なぜ視界が悪かったのか…。

平和のまちミュージアム 学芸員 小倉徳彦さん
「八幡大空襲は市街地を焼夷弾で焼いたりとか、市街地を狙う空襲をする部隊だったのですが、原爆を投下する部隊とは別の部隊。原子爆弾投下作戦はトップシークレットなので共有されていなかった。8月8日の八幡大空襲は本当に偶然8日に実施されて、煙の影響もあったと思われます。通説の一つではあるんですけど、八幡大空襲の煙の影響もあって小倉上空の視界が悪かった」

”兵器”部品の一部をつくっていた女学生

93歳の宮下三枝子さん。

当時、小倉高等女学校、今の小倉西高校の生徒だった宮下さんが親族にしか話したことがないという当時の状況を語ってくれました。

宮下三枝子さん(93)
「小倉・京町の、今の小倉駅のすぐそばで生まれました。兄2人、姉2人、私が末っ子でした。父はその兄が出征した年に急死したんです。心臓麻痺で。私はもう女学校に行けるような状態ではない。でも学問は大切だから女学校は必ず行きなさいと。そして昭和19年に女学校に行きましたけど、昭和20年の頃は勉強という勉強ができなくなって、私たちより上級生は皆、今、小倉・勝山公園と言いますね、そこが造兵廠だったんです。兵器を造ってた。そこに皆、動員で行ってたんです。私たちは学校の机の上で、今で考えると手で折れるということはアルミだったんじゃないかなと思うんですけど、小さなものを折る。それが飛行機の部品の一部になるということで毎日それをずっと折っていました」