「一歩前へ…」特攻に志願も不時着
予科練を卒業した神馬さんは、戦況が日に日に悪化する中、1944年、飛行機の偵察員として日本の占領下にあった中国や朝鮮半島の基地に配属された。その後まもなく、日本軍は、爆弾を積んだ飛行機で敵に体当たりする「特攻」作戦をはじめる。そして神馬さんにも運命の日が…中国の山東半島、旅順基地でのことだった。
「隊長から、『特攻隊というのがある。志願する者は一歩前に出ろ』と言われ、私は出た。他の人も出ますよ。残れるはずがない」
神馬さんは特攻隊に志願した。隊員20人全員が前に出た。
「それまで犠牲的精神とか、共同責任だとかって育てられてきたのに、逃げるわけにいかない。軍人勅諭だって毎朝、『一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし』と言っているのに、それに反することはできない」
終戦直前の1945年8月10日、神馬さんに出撃の命令が下る。「一度、京都の舞鶴基地に戻れ」という命令だった。
「僕はその時、それから特攻に行くんだなと思った。そしたら舞鶴に向かう途中で海に落ちてしまった。海の上に8時間浮いていたの」
海に不時着後、何とか朝鮮半島の陸地に辿り着き、砂浜に横たわり空を見上げたとき「助かった」と思ったという。ところがその後、神馬さんを過酷な運命が待ち受けていた。

終わらなかった戦争…シベリア抑留を経験
神馬さんは、辿り着いた海岸から元山基地に徒歩で向かった。民間の避難者と一緒だった。1945年8月9日にソ連が侵攻、朝鮮半島では略奪、強姦、殺人が繰り返され、大勢の日本人が家を捨てて逃げていたのだ。飢えと渇きの中、神馬さんは、何とか興南港まで歩き、日本に帰ろうと船に乗った。ところがその船の戸板にこんなことが書かれていたという。
『シベリヤ送リニナルゾ 今ノウチニ逃ゲロ』
先に乗船しシベリアに送られた日本人が書き残したものだったと見られる。
「スターリンが『日本人をシベリアに連れて行こう』って言ったんだよ。僕らは船に乗ってシベリアに連れて行かれた。一般の市民もだ」
神馬さんはシベリアに抑留された。マイナス30度の寒さの中、炭鉱夫や森林伐採の作業員として働かされた。神馬さんが詠んだ短歌には過酷な状況が記されていた。
「朝食で 『起きろ』と言っても返事なく 隣の戦友(とも)は目開きしまま」
凍った土を掘り、仲間の遺体を埋めた。 戦争が終わったのに死んでいった仲間たちのことを思うと、「今でも許すことができない」という。
神馬さんが故郷の北海道に帰れたのは、終戦から2年後だった。その後、中学や高校などの教師に。ロシアに語学留学した後、ドストエフスキーの「罪と罰」の翻訳もした。今も、学校などに招かれ、99歳とは思えない心に響く大きな声で、子どもたちに戦争の愚かさを伝えている。
「だまされるんじゃない、自分の人生だ。正義の戦争、名誉の戦死なんてありやしない。命は奪うものでなく、みんなで育むものなんだ」