歌舞伎町「ローラン」への家宅捜索
1998年1月27日、大蔵省への強制捜査の翌日、特捜部は「ローラン」への家宅捜索を行った。中国人の女性経営者がパソコンで管理していた「顧客名簿」や、1993年以降の「予約台帳」などが押収された。「ローラン」は漢字では「楼蘭」と表記するが、これは中国新疆ウイグル自治区の地名からとったという。
家宅捜索は6階の事務所から地下の倉庫に至るまで徹底して行われ、女性従業員2人が公然わいせつの疑いで警視庁に逮捕されている。
差し押さえた資料によって、「約13000人」に及ぶ登録会員のうち、実に「1200人」が金融機関の関係者であることが判明した。
MOF担の接待の場として、「ローラン」が常態的に利用されていた実態が、これによって裏付けられたのである。
中でも意外だったのは、接待の利用回数が最も多かったのが、「第二大蔵省」とも呼ばれたエリートバンクの日本興業銀行(のちにみずほ銀行に統合)だったことである。
日本興業銀行は、バブル絶頂期の1980年代後半、大阪・ミナミの料亭「恵川」を舞台に、女相場師・尾上縫に対して「2400億円」もの巨額融資を行い、当時の支店長が辞任。
「恵川」に出入りしていた黒沢洋頭取も国会で追及を受けた。
今回の接待汚職事件でも、日本道路公団に天下っていた大蔵省OBへの接待をめぐり“エース”と目されていたU常務が贈賄容疑で逮捕されている(のちに略式起訴)。
「ノーパンしゃぶしゃぶ」の利用頻度においても、日本興業銀行は第一勧業銀行、三和銀行、あさひ銀行、野村証券といった他の大手金融機関を大きく引き離していたのである。
ある銀行のMOF担当は「ローラン」についてこう証言した。
「席につく女性は頻繁に交代し、その都度チップが必要だった。結果として1人あたりの費用は5万円を超えることも多かった。ただ、『シェフラー』という店員がチップを立て替えてくれたため、最終的に請求書にまとめて記載され、銀行側が一括で支払うことができた。接待の席では『シェフラー』がMOF担の窓口となって料理のオーダー、指名された女性の配置などを取り仕切っていた」
逮捕された金融検査官のMに話を戻す。
Mは第一勧銀から“ノーパンしゃぶしゃぶ接待”を初めて受けた翌月──1994年10月3日。ついに、第一勧銀のMOF担当に対して「金融検査の日程」や「立ち入り検査の対象支店」といった極秘情報を漏らしたのだ。
第一勧銀のMOF担は、後にこう語っている。
「金融検査の情報は、喉から手が出るほどほしかった。総会屋・小池隆一への焦げ付き融資があり、もし予告なしに検査をやられると、不良債権が表に出るという危険があった」(捜査資料より)
10月11日から始まった金融検査の期間中も、第一勧銀からMへの接待は続いた。銀行近くの「高級寿司店」などで丁重にもてなすなど、第一勧銀は“検査対応”に抜かりがなかった。
ところが思わぬことが起きる。
検査中にMの部下の金融検査官が「小池隆一への融資の焦げ付きは問題ではないか」と強く指摘し、検査報告書に明記するよう求めたのだ。
現場のMOF担レベルでは対処することができず、報告を受けた融資担当常務の寺沢康行常務が対応に乗り出すことになった。
寺沢はかつてMOF担時代にMと顔見知りだったことから、Mに面会して頼み込んだ。
「どうか小池融資案件は取り上げないでほしい。報告書には載せないでほしい」
12月、金融検査は終了。最終的に、総会屋・小池隆一への不正融資は、検査報告書に一切記載されることはなかった。
第一勧銀が小池に対して行っていた「40億円」の融資はすでに焦げ付いており、金融検査で発覚すれば、巨額の不良債権として処理を迫られる恐れがあった。
そのため、第一勧銀はMへの接待を強化していた。結果的に、その目論見は成功したと言える。
年明けの1995年1月、第一勧銀からMへの「アフターフォロー」は続いた。
常務の寺沢とMOF担は、同行の系列企業が運営していた神奈川県大磯町の「レイクウッドゴルフクラブ」にMを招待した。そこで「大変お世話になりました」とお礼を述べた。
この日の接待費用は約7万円だった。

