◆《激戦の犠牲となった多くの住民…凄惨な記憶を語る証言者たち》
『ヌチドゥタカラの家』館長 謝花悦子さん(86)
「身内が全部集まって、おばさんたちもみんな一緒に行動して、すぐそばに爆弾が落ちた。で…おじいちゃんは、ここでは居られないと言って…終わるまでずっと歩き続けて一人も離れるな」
「死体でいっぱいお墓もない、火葬場もない…各所に山のように積まれた死体が…」
「戦争というのは殺してまでも勝つのが目的。元気な人間を、罪のない人間を殺して、戦争という名のもとで、殺して勝つのが戦争じゃない…?相手を殺して弱らせないと勝てないさ」

ボロボロの服は赤ちゃんの着物です。“ガマ”と呼ばれる洞窟に隠れているとき、赤ちゃんが泣き出しました。すると兵隊が「泣く子は利敵行為だ」と言って、母親の腕に抱かれていた赤ちゃんを銃剣で刺し殺したといいます。母親の手元には、この着物だけが残りました。

住民の多くが犠牲となった伊江島での戦いは、沖縄戦の縮図と言われています。
伊江島で戦争を体験した内間亀吉さん(87)
「墓の壕に行った。桶に汲んでこられた水は、ため池の水。夜だったから、桶の水を飲んだ。翌朝、飲もうとしたらウジ虫が4~5匹ウヨウヨしていた」
「布切れで虫を取り出して、ウジ虫の入っていた水を飲みました。あんな水でも飲まないと生きていられない。飲んだから生きた。そこまで人間生活どん底」
伊江島で戦争を経験した知念正行さん(87)
「大体10 隻以上いた。艦砲射撃がバンバン来るから、生きるか死ぬか…。もう多くの方々が死んでいるわけだから」
「3年で33の壕や自然洞窟から、あちこち厚生省や自衛隊が収集して、300体近くの遺骨が出たわけよ。私は毎日行って、写真を撮って、記録を残しておかないといかんと思って、昭和26年に遺骨を納める“芳魂之塔”を村が作った。そこに遺骨全部集めたわけ」