■現役引退後も140キロ ”マサカリ投法”で知られた村田兆治さん

「あー村田です」「さっき家に帰ってきて手紙読んだよ」
村田兆治さんから電話がかかってきたのは、亡くなる9日前の朝だった。ゆっくりとした口調で穏やかな声。電話をくれたのは、今年9月に起きた羽田空港での暴行事件について、「真相を聞きたい」と手紙を出して取材をお願いしていたからだ。小学3年生から大学まで14年間野球を続け、キャッチャーを守ってきた私にとって、村田兆治さんは大投手。現役引退後も”マサカリ”投法で140キロ近いボールを投げていた姿が印象に残っている。だからこそ、村田さんが警察署の玄関で頭を下げている姿は想像もしなかった。なぜ事件が起きてしまったのか、事件当時の村田さんの気持ちが知りたかった。およそ8分間の電話で、村田さんは、直接会って話をするという約束をしてくれた。ただ、9日後の11月11日、その約束は叶わないものとなってしまった。
■突然の訃報 村田兆治さん自宅の火事で死亡 2階小部屋に座った状態で発見

11月11日の早朝、私の上司から1本の電話があった。「村田兆治さんの自宅で火事があって意識不明の重体のようだ」信じられなかった。村田さんの自宅が黒く焼け焦げている映像をニュースで見て、はじめて現実を受け入れた。どうか助かっていてほしい。そう願ったが、その後、村田さん死亡の一報に触れた。72歳。死因は自宅の火事による一酸化炭素中毒とみられている。警視庁などによると、村田さんは火元とみられる2階のリビングの近くにある小部屋の床に部屋着を着て座った状態で見つかったという。
■4度にわたり自宅を訪問 村田兆治さんにあてた3枚の手紙

村田さんが現役引退後の活動として力を入れていたのが、離島の中学生による軟式の野球大会「離島甲子園」だ。島の子どもたち同士が、野球を通じて交流の機会を増やすことを目的として2008年に始まった。村田さんは大会の提唱者。60歳を超えても140キロ近い球を投げていた村田さんは、野球を続けてきた私にとって偉大な存在で、現役時代を見ていない子どもたちにとっても憧れの存在だったと思う。だからこそ、事件については信じられない気持ちがあり、私は取材を始めた。事件が起きたのは、9月23日。村田さんが、羽田空港の保安検査場で保安検査員の女性とトラブルになり、女性の左肩を押したとして暴行の疑いで逮捕された。
取材を進めると、村田さんが世田谷区の一軒家に住んでいることがわかった。突然、訪問するのが失礼なことは承知の上だったが、事件から1か月後の10月21日(金)にはじめて自宅を訪問した。時間は夜8時を過ぎていた。自宅の中は真っ暗で、インターホンを鳴らしても応答はない。取材の依頼をする際には、電話やメールなど、いくつかの方法が考えられるが、直接会ってお願いすることに拘ったのは、「事件当日に何があったのかを知りたい」というこちらの想いを誤解なく伝えたかったからだった。
週が明けた10月24日(月)、26日(水)も会えず、4度目の訪問となった11月1日(火)。この日に会うことができなければ、村田さんが遠方に出かけている可能性もあると考え、“会えなければ手紙を書いて投函する”と決めて自宅に向かった。午後8時、やはり応答はない。“もうここには住んでいないのかもしれない”そう思ったが、私は村田さんの自宅近くの飲食店に入り、ダメ元で便せん3枚にわたり手紙を書いた。