いまや広島のソウルフードとなった「お好み焼」。元々は子どもたちのおやつとして人気のあった「一銭洋食」でした。戦後の復興期、空腹をいやす庶民の味だった一銭洋食を、「お好み焼」として全国へと広げた立役者に迫ります。

広島市中区のお好み焼みっちゃん総本店は、平日にもかかわらず、旅行客などでにぎわいます。

京都から来た人「これを食べにきたんよ」
記者「えっ?お好み焼きを?」
京都から来た人「そうそう」

いまではすっかり広島の味としておなじみのお好み焼。その立役者となったのは、このソースでした。

「こういう形で運んでたんですよ。これが業務用の、だから重くてね」
オタフクソースの瓶が入った木のケースの模型を指し、腰を落として、運ぶ様子を再現する男性。Otafukuグループ・最高顧問の佐々木尉文さんです。創業一家に生まれ、高校卒業後から家業を支えてきました。

1922年に、今の横川町で創業した「佐々木商店」。醤油や酒を客の好みに合わせて調合し、販売していました。この技術を生かし、酢の製造も始めるなど、すべてが順調でした。

しかし、1945年8月6日。原爆投下がこの店の運命を大きく変えました。原爆投下の瞬間を、佐々木さんは今もはっきり覚えています。

佐々木尉文さん
「なんか落下傘がゆっくり降りてきて。ぴかって光ったときまでは覚えとるんですよ。あとはもう吹き飛ばされて。私もがれきに埋まって。もう這い出たときには燃えてましたから。で、父親と母親で引っ張り出してくれて、がれきの中から」

横川一帯は爆風で建物が倒壊。火災も発生し、焼け野原となりました。幸い家族の命は助かりましたが、自宅も佐々木商店も全焼しました。終戦の翌年には長束の酒蔵を借り受け、酢の製造を再開しましたが…。

佐々木尉文さん
「原爆で他の(酢の)メーカーはほとんど被害をうけてない。佐々木(商店は)は何もかもなくなって酢を新たに作って売るといっても、なんぼ急いでも1年」

そこで、決断したのは、ソースの製造でした。

佐々木尉文さん
「酢だけじゃどうにもならんけえ言うて考えて、昭和24年ぐらいから、あのソースをはじめようと、昭和30年代に、ずっと営業をやってきたんですが、なかなかなじんでもらえなかったのを覚えているんですね」